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「対話の文明」を求めて(後半)ロバート・ハッチンス

2020年03月19日アスペンセミナー

 新たな時代を切り拓くリーダーシップにご関心のある皆様に、日本アスペン研究所が行ってきた活動や蓄積してきた文献のなかから、ご参考になりそうな文章・講話などをご紹介しているこのコーナー。前回のコラムでは、米国アスペン研究所発足のきっかけとなったロバート・メイナード・ハッチンスのスピーチの前半をご紹介しました。
 スピーチの前半で、「瑣末化」や「無教養な専門家による脅威」に警鐘を鳴らしたハッチンス。後半ではいよいよ、「対話の文明」を作っていくための「学校」や「人格教育」の役割が訴えられます。
 そして、「全人類の人間性に基づく国境を越えた社会」をつくりあげていくための共通の絆は、「善に対する信仰」、「人間性に対する信仰」、「人間性の善に対する信仰」であり、これらの信仰こそが「人類を一つに結び永続的な平和を実現するための道徳的、知的、精神的革命をもたらすことができる」と結んでいます。
 この感動的なスピーチを是非、ご堪能ください。

「対話の文明」を求めて(後半)ロバート・メイナード・ハッチンス(1949年)

dummyRobert Maynard Hutchins University of Chicago Photographic Archive, [apf1-05028], Special Collections Research Center, University of Chicago Library

 この国の公立学校(コモン・スクール)は、平凡なという理由でコモンと呼ばれているわけではない。これから育つ世代に、コミュニケーションとコミュニティ・ライフの基礎となる共通の理解をもたらすべく構想されたからこそ、そう呼ばれているのである。これらの学校が瑣末なものになってしまったこと、高い使命を忘れてしまっていること、また教育制度というものは若者が仕事に就くまで好ましくない所から遠ざけるためのもので、その意味では住宅計画とさして変わりない程度のものだ、という最近の一般的な考え方は、専門主義や職能主義の進展に伴って、コミュニケーションとコミュニティ・ライフの基盤を蝕んできた。人格教育、すなわち自立した思考力のある、われわれの伝統にふさわしい人間を育てるための教育の衰退は、考える人間を相互に、あるいは過去の偉大な思想家から切り離してしまった。大学の卒業生たちは、過去と未来を結びつける巨大な鎖の環としては、かなり弱いようにみえる。
 しかしながら、こうしたことが全て不可避だというわけではない。われわれはその使命に気づこうともしない公立学校(パブリック・スクール)や、単に学生たちに楽しい時間を提供し、現世的な出世のお手伝いに献身するような大学ばかりをもつ必要はない。その気になれば、われわれの時代にふさわしい人格教育をつくり出すことは可能であるし、市民の誰もがそうした教育の恩恵に浴するようにすることも可能である。あるいは、これらの目的を達成するために、学生の専門教育の時間のほんの少しでも犠牲にする必要はない。アメリカの教育制度は、浪費と軽薄なところが非常に大きいので、時間を知的に利用すれば、二〇歳か十八歳になるまでに市民として求められる人格教育を施すことができるであろう。そのあとで、心ゆくまで専門性を高めればよいのである。これは、考え方と意志の問題である。われわれが本当にそうしたいと思えば、現代の教育状況はいくらでも変えることができる。

 科学と技術の進歩は、コミュニケーションという素晴らしい手段をわれわれに与えてくれた。そのコミュニケーションを人類の連帯を強めるために使わない手はない。交通とコミュニケーションの機械化における進歩だけで、一つの世界が可能になるわけではないことを、われわれは知っている。アテネとスパルタ、ロンドンとパリ、ワシントンとリッチモンドは、常に極めて近い関係にあった。コミュニケーションと交通の進歩は、欲望と野心の火花を近づけすぎて、世界的な爆発に点火する恐れを増大させただけである。さらに言えば、世界が一つでもそれが悪しき世界なら、それは多数の世界が存在する状況よりも悪い。なぜなら、数多くの世界があれば、善良なる意志をもった人たちが、ウィルヘルム・マイスターの巡礼者のように、少なくとも一つの世界から別の世界に逃げ出す機会があるからである。
 一つの良きゲーテ的世界においては、コミュニケーションと交通の手段は、爆弾、スパイ、宣伝物や誤り導かれた私益の使者を国から国へと送り込むのではなく、学者や教師、概念、書籍を交換したり、全人類の人間性に基づく国境を越えた社会をつくりあげるために利用されるであろう。さらに他のゲーテ的世界においては、対話の文明こそがコミュニケーションである。対話の文明は、相互の尊敬と理解を前提とし、必ずしも意見の合致を前提とするものではない。共通の絆は、信仰の絆である。ゲーテの善に対する信仰、人間性に対する信仰、人間性の善に対する信仰は、シニシズムや絶望の泥沼に引きずり込まれることを拒否する人の足元を支える堅固な大地である。この信仰は創造的な力であり、それによりわれわれは進歩向上が可能になり、他の人のわれわれに対する信頼、そしてその人びとの進歩向上をもたらす力なのである。この信仰によってこそ、われわれは対話の文明の基礎を築くことができる。この信仰によってこそ、人類を一つに結び永続的な平和を実現するための道徳的、知的、精神的革命をもたらすことができるのである。