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「21世紀のリーダーシップについて」(2) 今道友信

2020年04月13日リーダーシップ

 今道友信先生は講演「21世紀のリーダーシップについて」の冒頭で、古典を読むことで「理念」に触れ、それを「理想」や「ビジョン」に転換・具体化していくことで組織を率いていくリーダー像を提示しました。
 講演の中盤では、20世紀末から21世紀にかけての世界の変化を高い視座で捉え直し、技術が相互に繋がることで生じた新しい「環境」と、その中でリーダーが養うべき「新しい倫理」について語ります。
 哲学者として新しい倫理「エコ・エティカ」を立ち上げた、今道先生の真骨頂ともいうべき講演中盤。講演から十数年たった現在にも思いを馳せながら、お読みください。

2. 変化する世界

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 総合テーマについての次の哲学的考察の課題は「変化する世界」です。一般的に言えば、世界は常に変化しています。13世紀の日本の隠者鴨長明は、その詩的随想として日本人にずっと読み伝えられている『方丈記』ですでに、世界はいつも流れているものだと書いている。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」と。まさに鴨長明の書いたように、世界はその本質上、はかなく変わりやすいものです。
 しかし、誰かがわざわざいまの世に「変化しつつある世界」という語を使うときは、ちょうどいま伝統的な権威が疑われていることなどを考え合わせると、われわれの時代がある安定した世界から未知の盲迷めいた世界に移り変わる過渡期であると見て、いま現在のことを指していると言っていいでしょう。われわれは、みないままでの秩序が揺れ動いていることを感じています。グローバリゼ←ション自体がすでに新しい秩序を待っている混迷の状況の象徴と見ることもできます。
 それゆえ「変化しつつある世界」とは、近代という18世紀中葉から少しずつ人類が築き上げてきた一つの安定した時代が終わって、傾斜を始めていることを意味しています。それは同時に、また新しい時代が芽生えてくる望みでもありますが、とにかく一つの危機であることは確かでしょう。
 そこでわれわれは、われわれの時代を特色づける徴表、ノータを見つけることが大切です。私の見るところでは、1970年以後に2つの著しい特色があり、これらに哲学的な考察を向けるべきだと思います。それは一つは世界の組織化としての技術連関の成立であり、いま一つは道徳の価値論的混迷つまり伝統的倫理学の失権です。
 1970年までテクノロジーは常に手段、つまり自然に吋する人間の道具や機具のことでした。一つ一つの技術装置はそれぞれ分離されたまま、その所有者にとって有用でした。しかし、70年以後に世界的規模の技術連関、つまり技術のつながりが成立し、各種の機械が一連の体系として結合しました。その結果、例えば自動車はもはや他の機械と独立した移動の道具ではなく、道路の交通網を必要とし、交通信号や給油所、休憩所などの外的単位形成なくして機能せず、最近ではこれに情報ネットワーク、空調設備、携帯電話やナビゲーターなどの内的設備も完備。いまや自動車は技術連関の象徴となっています。つまり、70年代から技術は道具としての原初的な性格を保持したまま、われわれの環境となったということです。われわれの環境とはもう自然だけではなく、そのような技術世界と文化次元の三者で成り立っているものなのです。
 そしてこの人工空間は、一方で宇宙空間にも延びていくと同時に、われわれの体内の極微空間、ナノ空間、フェムト空間にまで及んでいます。この人工空間は、自然の中にありながら同時に人間のみならず自然的存在一般の環境にもなっているという、この逆説も忘れてはなりません。

 このような技術連関の広がりを考えると、国家単位で物事を考えることの意味はすでに失われているような気がすることがあります。それゆえ、リーダーにとっての第4番目の条件は、国家的限定を超える人間の優越性の意識を持つことです。国家は大事ですが、本当に22世紀になってもこういう制度が続いているのかどうか。これからは、遠い未来をも問題意識の中に入れて考えていかなければならないでしょう。したがって、国民的レベルとか国益ということを考える前に、むしろみな等しく人類であるという意識を持ち、人類の幸福を希求することが大事だと思います。
 テクノロジーは、難しいプロセスの縮小あるいは代行によって、人間の営みの結果を容易に人々に獲得させるようになりました。これは、いままでにない新しい抽象が人間生活の中に入ってきたことを意味します。それは論理的な抽象ではなく、ある結果を抽象して、その結果に至る過程をできるだけ短く、簡単にし、できたら捨ててしまおうとさえすることです。これを一言で言えば、昔はフランスまで旅をするのは大変でしたが、いまは飛行機に乗って寝ていれば着いてしまうということです。
 技術連関がもたらしたこのような時間経過の縮小は、よいことだったのかどうか。人間の本質は意識であり、意識の本性は空間ではなく時間にある。その時間を寝たままで過ごして結果が出てくるということは、人間意識が消去されても差し支えないということになります。このことのよい面は当然認めるとして、気になるのは、そのようにして経過が消去された結果出てきた余暇時間を、現代人はどう使っているかということです。多分、昔の人が目的に到達するまでの過程の中で苦しみ、精神を鍛えたようには、余暇で精神を鍛えることはほとんど不可能でしょう。それでもせめてその余暇を、霊性としての意識の力を養うために使うことには意味があると思います。それは何かと言うと、良質の美的経験を積み重ねること、よい芸術、崇高な芸術による自己鍛錬です。
 したがって、リーダーに必要な第5の条件は、崇高性を持つ絵画や詩や音楽などの諸芸術作品に持続的に接することを通して、美的経験を積み重ねる努力をすることです。それは人間の意識を職業的効果にのみ集中させ、ともすれば物質的欲望にのみ向かわせがちな現在の社会生活の中で、それらに逆らって良質な経験を積むことであり、それは多分リーダーの知的義務でもあろうかと思います。
 テクノロジーは人間の幸福を増大します。だからこそ、足を傷めた私のような老人でもケーブルカーによって若いころ登った山からの眺望をノスタルジーに満ちて見ることができます。それはよいことです。しかし他方で、そのような老人を背負って近くの丘の頂に連れて行く隣人愛は、もはや不要にも見えてきます。また、近代国家がつくり上げてきた福祉政策によって、機械力や行政の力が個人の親切をはるかに凌駕する結果を見せているため、弱者をいたわるという倫理的伝統などは普通の市民にとって無用に見えてきて、古い倫理は失権に瀕しています。そして、いまテクノロジーがもたらした市民生活の平準化があらゆる領域に及んだ結果、権利としての正義が主張されるようになってきました。本当に正義は権利としての正義だけなのか。 1971年にアメリカの哲学者ジョン・ロールズが「公正としての正義」を論証する努力をした『正義の理論』が再販されたのは、誠に時宜を得たことだと思います。
 つまりリーダーの第6番目の条件は、ものごとに道徳的責任を持つこと、道徳的意識の再建の必要性を正当化することであり、具体的には新しい倫理に関心を持つことではないかと思います。私どもが努力しているエコ・エティカは、そのためにあると言っても過言ではありません。いまいろいろなところで倫理が語られますが、ほとんどが服務規定と倫理とを一緒にしている。倫理とは、絶対にただのサービス規定ではないのです。

次回へつづく