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アスペン精神をどう継承するか(上) 村上陽一郎先生

2020年06月11日アスペンセミナー

 このコラムではこれまで、アスペン・セミナーが目指すリーダーシップ像について、日本アスペン研究所の活動を支えてこられた方々のお考えを紹介してきました。
 今回のコラムは、村上陽一郎・日本アスペン研究所副理事長が、当研究所の設立20周年記念シンポジウムで行った「アスペン精神をどう継承するか」という講演をご紹介します。
 村上先生は講演で、対話を通して「オルタナティブ」と出会うこと、即ち、他者が発する異なった意見に接することで、「自分はなぜその論点を導き出すことができなかったのか」、「他のようであることがどうして自分にはできなかったのだろうか」との反省が生まれ、自己を鏡として異見への寛容さを養うことになると指摘されます。
 ここに、これまで繰り返し指摘されてきた「寛容さ」や「謙虚さ」といった、これからのリーダーに不可欠な価値が、アスペン・セミナーを通して如何に培われていくか、その秘訣が垣間見られます。

古典を通じて「魂」を磨く

dummy村上 陽一郎・日本アスペン研究所副理事長/東京大学・国際基督教大学名誉教授

 日本アスペン研究所の創立20周年をこのように華やかな形でお祝いできることは私どもにとって大変な喜びです。しかし20周年というのは、ある意味では組織にとって危機でもあると思います。組織を設立するときの熱狂がだんだん弱まり、そして設立に携わった人々が第一線から退かれ、あるいは日本アスペン研究所では小林陽太郎さん、本間長世先生、今道友信先生などがそうですが、礎を築かれた方々が亡くなられたりしています。つまり組織にとって20年という節目は、少しずつ変わっていくメンバーが設立時の熱意と志をどのような形で受け継いでいくか、そして受け継ぐだけでなく、新しい風をどのような形で入れていくかを考えなければならない時期でもあるのです。きょうはそのようなことを踏まえながらお話ししたいと思います。

 アスペンのオリジナルな精神は、いま北山理事長のお話にもありましたように、1949年に開催された「ゲーテ生誕200年祭」におけるロバート・ハッチンスの講演が原点となっています。そのキーワードは二つあり、一つは「瑣末主義」から抜け出すこと、そしてもう一つはあらゆる分野で顕著になっている「専門化」から抜け出すことです。この二つから抜け出すためには何が必要か、何をなすべきかを考えなければならないというわけです。

 たまたま出会った本ですが、コンサルタントの山口周さんが書かれた『武器になる哲学』(KADOKAWA、2018年)にはハッチンスの精神が見事に引かれ、瑣末主義と専門化から抜け出すための詳細な意見が述べられているので、機会があればお読みいただきたいと思います。

 では、なぜ瑣末主義は悪いのか、なぜ専門化は悪いのか。いまさらここで長々と論じるテーマではありませんが、瑣末主義については、鳥瞰的な視点で見ることができない、複数の視点で眺めることができない、クリエイティブな視点が欠けてしまうといった弊害があるからですね。

 そして専門化については、まずは知識の分断・断片化が挙げられます。これは瑣末主義の弊害とも通底していますが、例えば、いま自然科学の世界では論文主義がはびこっていて、論文がある特定のレフリーによってしか認められないことになると、そのレフリーの価値観に基づいた研究成果だけが世の中に通用するということが起こり得ます。専門化によって理性も分断されてしまいます。あるところで使われる理性と別のところで使われる理性があたかも別のものであるかのように考えられてしまうのです。そしてもう一つは人間同士の分断です。私は本来、個人主義はプラスの価値であると考えており、そして日本人は個人主義が欠けていると繰り返し非難されてきましたが、しかし個人主義は人間同士を分断させてしまうマイナスの側面を持っているのです。ラテン語での「個人」は、分割しえないものとしての原子を意味する「アトム」というギリシア語を、ラテン語に直訳した言葉が使われ、そして人間社会を構成する最小単位という意味を併せ持っていたのですが、現代においては共同体という意識が薄れてしまい、社会のアトミズムという思考がますます顕著になりつつあります。

 この瑣末主義と専門化の弊害をどのような方法で解決すればいいのか。ハッチンスの問いかけに対してアスペン研究所は、古典を通じて人間としての「魂」を磨いていくことをアスペン・セミナーの基本精神としたのです。

 日本で古典と言うと、古い時間を経た文典という意味で捉えられていますが、しかしヨーロッパにおいては、古典に相当する「classicus」はまったく違う意味を持っています。歴史を遡ると、古代ギリシアや古代ローマでは、都市国家でその死命を制する緊急なもの、つまり軍船や軍艦こそが「classicus」でした。それが次第に軍艦や軍船を都市国家に寄進することができる「階級」(class)の人々、つまりは上流階級という意味で使われるようになりました。したがって、都市国家が繁栄するためにもっとも大事なものが軍船だったとすれば、人間が生きていくために枢要な根本が古典(classics)なのです。

 では、その古典をもとにしたアスペン・セミナーの方法論とは何か。アスペン・セミナーは企業の研修セミナーとは本質的に違う形で営まれています。まずセミナーが始まる前にかなり分厚いテキストが参加者に送られ、そのテキストを十分に読みこなしているという前提でセミナーが始まります。すべてのメンバーが古典のテキストを共有し、テキストを読んで浮かび上がったさまざまな問題意識を対話という形で披露し合うのですが、異質な人々が集っているわけですから、同じテキストの同じポイントでさえ、まったく違う解釈が生まれ、理解の多面性が引き出されるのです。この対話こそがアスペン・セミナーの生命と言っても過言ではありません。

 その特徴的な方法論で営まれるセミナーに参加した結果はどうなるでしょうか。当然のことながら、まず自己理解が深まります。いま申し上げたように、同じテキストの同じポイント一つにしても、自分とAさんはまるで違う論点をそこから導き出します。それはどちらが正しいということではなく、感性やキャリアが違い、これまで受けた教育も違う人たちが同じテキストをもとに対話をして一つの共通の場をつくり上げていく中で、まったく違った考え方に出会うことによって、自分はなぜその論点を導き出すことができなかったのかと、他者を鏡として自己を深く振り返ることができるのです。「オルタナティブ」という言葉がよく使われますが、まさに他のようであることがどうして自分にはできなかったのだろうかという反省が浮かび上がってくるのです。

 すると、当然のことながら他者に対する理解と共感が深まります。もちろん、そこで自分を変える必要はありません。自分が正しいと思えばその正しさを貫くことは大切ですが、少なくともオルタナティブ、他のようであることに対する理解と共感がそこで育まれ、自己を鏡として異見への寛容さを養うことになるわけです。

 そしてアスペン・セミナーから生まれるもう一つの結果は、コミュニケーションの可能性が広がることです。セミナーを体験なさった方はよくご存じだと思いますが、理解と共感を持って他の人が自分とは違う意見を言っていることをきちんと聞きながら、自分がさらに言いたいことを考える。話さなければ対話は成立しませんし、聞かなければ対話は成立しないのです。この「話す」と「聞く」を同時に実行していくことが、コミュニケーションする力を育む重要なポイントだと思います。

(次回へ続く)