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村上陽一郎先生×猪木武徳先生 対談「教養としての「漱石」」(3)

2020年08月04日世界・日本

前回の対談では、幅広い学問的素養を持っていた漱石の話題から、知識を得れば得るほど未知の部分が増えるはずで、本当の専門家はそのことに気づいていなければならない、というリーダー論にまで話題が広がりました。
対談はいよいよ、漱石文学に登場する人物像に焦点が当てられます。登場人物を自分と重ね合わせながら自らを省みるという、ただ単に物語を楽しむために小説を読むことを超えた、自分自身を高めていく読み方。同じ本好きでも、知識人、教養人として自らを磨いていこうとする人とそうでない人の違いは、本の読み方にも表れるようです。


猪木武徳・国際日本文化研究センター教授
村上陽一郎・国際基督教大学教授
(司会)篠原 興・㈶国際通貨研究所顧問
(いずれも、当時のお肩書)

自分の中にいる漱石の人物たち

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篠原:いま若い人は漱石を読まなくなったそうですが、小説を読むとは、自分がより自分らしい世界をつくり上げていくために他人の生き方をなぞって考えてみるということですね。そこで、どういう人の書いた、どの人物に自分を仮託して読むかが重要になります。例えば、漱石の作品を僕もいくつか読み、中には何回も読み返したものもありますが、どういうわけか『明暗』は読み切れないんです。あの津田という登場人物に自分を当てはめて読み始めると、どんどん嫌になって、つらくなってきて、途中で投げ出してしまうんですよ。そこで、小説の主人公を通して見た漱石の魅力と言いますか、あるいは漱石のつくった人物像の面白さといったことを少し何いたいのですが。

村上:私は自分を登場人物に仮託するのではなく、向こうが自分の中にもいると思って読んでいるんです。つまり、津田はまさに嫌な男ですね(笑)。エゴイスティックで、見え坊で。でも『明暗』を読んでいると、「ああ、俺の中にこいつがいる」と思うわけです。一方で『虞美人草』の宗近君は不思議なことに私の中にはいない。ああなりたいとは思うけれど、ああいう行動ができて、ああいうふうに振る舞う自分を想像できないわけです。

猪木:『それから』の代助はどうですか。

村上:代助も自分の中にいますね。『行人』では、二郎よりは一郎かな。『こころ』では「先生」のキャラクターが自分の中にもあるかもしれない。先生はちょうと代助と逆なんです。代助は譲って失敗する。先生は逆に奪って失敗するわけでしょう。ちょうどクロスしている。その両方とも自分の中にいるなと。

猪木:そういう意味では、読むという行為は、自分を読むことでもあるんですね。ところで、外国の漱石研究者はどのような読み方をしているんでしょうね。漱石の小説を英訳で読むと、あまり面白くないように思うんですが。

村上:それは私も感じます。

猪木:私が大学1年生のとき、フルブライト奨学生として京都大学に来ていたアメリカ人の日本近現代史研究家の読書の手伝いをしたことがあるんです。その人は後に吉田満さんの『戦艦大和ノ最後』も英訳されたりして、日本語のボキャブラリーが豊富で実によくできる人でした。彼が、日本の小説を読みたいので何か面白いものはないかと言うので、『こころ』を勧めたんです。読んだあと、彼からなぜこれが面白いのかわからないと言われて、私はちょっとショックを受けましたね。
その後、英語の家庭教師のアルバイトをしたのですが、そのときテキストに英訳本の『こころ』を選び、読んだんです。ところが、英訳された『こころ』には原作のあの雰囲気が全然ない。なるほど、これでは全然面白くないなと。だから、現代の若い人たちで、当時の日本の雰囲気とか生活を知らない人にとっては、まさに外国語を読んでいる感じなのでしょうか。『道草』なども、筋は特にあるわけじゃない。ただタンタンと続いている印象ですね。だから、漱石が日本語で書いたということと、漱石の小説が英語で読まれるということとは、全く別の話なのかなと。

村上:やはり言葉が持っている力は英語と日本語とでは明らかに違うので、何がそこから運ばれていくのかについては、それぞれ違うだろうと思いますけどね。

次回に続く