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村上陽一郎先生×猪木武徳先生 対談「教養としての「漱石」」(4)

2020年08月17日世界・日本

 村上先生と猪木先生の対談は、小説から離れて、漱石の文明論、時論に移っていきます。アスペンのヤング・エグゼクティブ・セミナーで取り上げられている「現代日本の開化」はまさにこのジャンルです。

 当時の社会を、西洋化を取り入れて競争が激化し、ストレスがたまる一方だと喝破し、勝った、勝ったと浮かれている大衆を批判的に眺め、それで良いのかと問題提起する漱石。まさに、パブリックな視点を持った教養人を体現した漱石の慧眼は、21世紀の現代社会をも射抜いています。しかも、このような、一般の人にはなかなか持ちえない課題認識を、誰にでも分かるように、しかも説得力をもって訴える表現力に、文豪としての漱石の凄みが垣間見られます。



猪木武徳・国際日本文化研究センター教授
村上陽一郎・国際基督教大学教授
(司会)篠原 興・㈶国際通貨研究所顧問
(いずれも、当時のお肩書)

漱石の文明批評

dummyヤング・エグゼクティブ・セミナーのテキストに収録された「現代日本の開化」

篠原:話を変えますが、淑石には文明論、時論など、小説以外の作品もいろいろありますね。これらの作品が現代のわれわれに持つ意味は何でしょうか。

猪木:小説は面白いけれども文明批評はそんなに面白くない作家もいるし、逆に批評は人物論でも何でも非常にうまいけれども小説は下手という人もいますね。その点、漱石は両方において優れていると思います。

村上:朝日新聞の記者牧村健一郎氏が書いた『新聞記者夏目漱石』(平凡社新書)という本がありますが、それによると漱石は随分一所懸命、全国を廻って講演しているんですね。それも朝日新聞に対するサービスだったようですが。

猪木:「現代日本の開化」という講演で、私のような経済社会を研究している人間から見ても、極めて現代的なことを言っていますね。例えば文明開化などによって西洋の技術やシステムが入ってきて、万事に競争が激しくなったと。そして、効率が一番大事なお題目になって便利な世の中にはなったけれども、一方で競争が激しくなることによってわれわれのストレスが大分強くなってきているということを言っている。100年後のいま、われわれはまさに同じことを言っていますね。競争、競争で。

村上:われわれは、100年たってもまったく同じことを言っているわけね(笑)。

猪木:それは明治維新から40年足らず、日露戦争前後の、漱石が登場して活躍するころの話ですね。当時の日本が一等国か二等国かというような議論がされ、西洋に追いつこう追いつこうでやってきて、便利にはなったけれども、これは大変なストレスだと。われわれは、GDP(国内総生産)の計算をするとき、激しい競争で生み出されたものの価値は測定するけれども、ストレスの方は測定していない。だから漱石の時評には、福祉(ウエルフェア)の指標、よき社会の指標としては、GDPはちょっと一面だけを見ているのではないかというような経済学批判がちゃんと入っている。やはり経済生活がよくなったということは、選択の幅も広くなり、生活の快適さも増えたわけですから、安易に批判するわけにはいきませんが、そのシステム自体のあり方にはそれなりの反省が要りますね。

村上:でも漱石の講演は、随分聴衆にサービスしていますね。いろいろジョークを入れたりして。だから聴衆も湧いた。漱石の講演を非常に面白く聞いたようです。

猪木:漱石は落語が好きでしたから。

村上:小説の中でも、例えば『三四郎』の広田先生は「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と言う三四郎に対し、「滅びるね」という有名な言葉を吐いていますね。あれは一言だけですがすごく強い言葉で、ああいう感覚を持っている漱石は、やはり知識人だと思います。つまり時代は富国強兵で、国中が二つの戦争に勝った勝ったと喜んでこれで一等国だと言っているときに、「それが何だ」と言ってみせることのできる能力をすごいと思うし、その近代批判はかなりの部分がいまでも当たっていますね。
近代社会では、人と人との間の紐帯が切れてアトムの集まりになってしまっているということを、あの時代にどうして言えたのか。現在から見れば、あのころの社会はまだまだそんなではなかったはずだと思うのに、あれだけ先見性のあることが言えているのはなぜなんだろうと、それが私には不思議なんですけどね。

篠原:漱石が提出している命題の一つが、西洋では200年、250年かけて一所懸命やってきたことを、日本は3、40年で何とか追いつこうとしている。そもそも、その辺に無理があるんだよということです。漱石には、間口だけ広げて後ろはすぐどん詰まりになってしまう家を建てているようなものだという問題意識があるんですね。この文明論を読んでいて思うのは、いま世界におけるわれわれは、あの漱石の時代と同じぐらい、あるいはもっとすごい文明の競争と転換のただ中にいるわけですが、漱石はすでにあの時代にそこにいることの苦しさだけでなく、それに打ち克つには覚悟が要ることまでを言っている。いまそういうことすら言う人がいなくなっている中で、漱石の文明論が語りかけている意味は、あの時代よりもむしろ現在の方があるのではないかと思うんです。

猪木:先ほど私も、あの批判は現代にも当てはまると言いましたが、社会構造と言いますか、背景は随分違っていますね。漱石の小説の主人公は、大学卒が多いでしょう。あの当時、大学卒は同年齢層の1%もいないんです。それなのに、彼の小説に出てくる主人公のほとんどは大卒つまりインテリで、彼らが国の行方や社会のあり方について考えているという、一種のパブリック・インテレクチュアルズの世界なんですね。いま大学を卒業した人は、そんなこと考えていないでしょう。言ってみれば、社会の中の1%にも満たない人間が日本の問題をいい意味でのエリート意識から議論するという世界の話と、現在のように同世代の半分ぐらいが大学に行き、でも社会で起こっている問題に対してはあまり関心を持たない世界とでは、社会風土や背景は大きく違いますね。
漱石自身が関心を持っていたのはやはりパブリックな問題で、夫婦の関係のことを扱っていながら、実は近代化によってばらばらになっていく個人の姿を見ていたり、いま日本はこんなにカエルが腹を膨らませるようにして無理をしているけれど、いつかパンクするぞというような恐怖感を持っていた。現代の世の中では、誰がそういう気持ちを持って日本の将来を危惧しているのかと思うんですよ。そういう意味では、大分世界が通うなという気がするんです。

篠原:しかし、漱石の小説は新聞を通して読まれましたね。これは多分、1%のインテリも読んだでしょうが、残りの99%のうちの多くの人も読んだだろうと思います。あるいは講演に行って人気があったというのも、99%の方がたくさん来ている講演会だったと思いますね。そうすると、インテリがインテリのためのインテリ風な問題提起をしたわけではないと。

猪木:それは、先ほど村上さんがおっしゃった知識人の条件の中の、いかなるメディアを使っても表現できる力量ということと関係するんでしょうね。つまり非常に大切な難しい問題を一般大衆にも語ることができるという、この技巧の高さがやはり教養の力なのでしょう。

次回へ続く