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村上陽一郎先生×猪木武徳先生 対談「教養としての「漱石」」(5)

2020年08月27日世界・日本

 村上先生と猪木先生による夏目漱石をめぐる対談もいよいよ大詰め。

 前回の対談では、淑石の文明論、時論がテーマとなりましたが、今回もその流れで、「現代日本の開化」でキーワードとなった「内発的」な動機の大切さが、改めて確認されます。

 さらには、周囲の話を聴きながらもそれに流されず、自らの見識を軸に必要とあれば一石を投じる、そういった公共的なものへの責任意識が、漱石の著作に貫かれていること、そこに知識人・漱石の真の姿を読み取れることが指摘されます。

 最後に、村上先生、猪木先生がお勧めの漱石作品が紹介されますので、この秋、手に取っていただく機会となれば幸いです。

知の公共性を考える

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篠原:ですから、漱石は小説も面白いかもしれませんが、文明評論もそういう意味では示唆するところが大と言えますね。

村上:日本の今日までの歴史の流れを見て、それぞれの時代の微係数のようなものを考えていくと、実は日本は繰り返し、繰り返し、同じ微係数で動いているんです。私は科学技術の世界にある程度身を置いているわけですが、そこでもいま最大の問題になっているのは、なぜ欧米の競争主義的な制度を日本に取り入れないのかということなんです。大学改革しかり、科学技術予算の改革しかり、総合科学技術会議での予算のつけ方しかりです。だから、実は明治の文明開化と同じ微係数がこの2006年の日本でも働いている。 それに対して疑問を呈することはすごく難しいし、抵抗することもすごく難しいんです。だから、自分はとても漱石の真似はできない。漱石ほどの技巧もないし、漱石ほどの蓄積もないし、多分漱石ほどの能力もない。でも、何とか言わなくてはいけないとは思ってきたわけですけどね。

篠原:いまの村上先生のお話を漱石風に言うならば、競争主義的な制度を日本に輸入しなくてはいけないという議論には、必要なところはそうしましょうよと。ただし、それが内発的であることが大事だと思うんです。自分たちの持ってきた文化をきちんと消化した上で、これはどうしても必要なんだから入れようという覚悟ができたらそこではじめて入れようと。それが当時の日本人に漱石が問いかけたように、いまわれわれに問いかけられている問題のような気がします。

猪木:お互いに刺激し合う状況でないといいものは生まれてこない場合もあるから競争しましょうという、そういう考え方自体は大事だと思います。ただ、その基準がノーベル賞でメダルをいくつ取るためというだけでは困るんです。

村上:それは100%賛成ですね。

猪木:やはり、篠原さんが先ほどおっしゃった内発的な問題は大きいと思います。学問でも芸術でも何でもそうですが、例えばピアノを買ってお母さんがやかましぐ言って練習させても、内発的なものがなければ結局子どもはやめてしまいますね。だから、内発的なものがない状況で、制度だけをコピーして押しつけるのはよくないんです。

村上:そこで最初の話に戻るんですが、いろいろな立場に立って物事を考え、何かを絶対的なものとして捉えるのではなく、自分のきちんとした批評眼は保ちつつ人の話に耳を傾けるという、先の知識人の条件は非常に大事なんですね。みんながワーツと舞い上がっているときには、「本当にそれでいいのか」と一歩引いて見るというカウンター・バランスを働かせる。それを漱石流に言うと、流れに棹をさす姿勢ですね。

猪木:それを私の言い方で言うと、知識人はパブリックな性格を持っているということです。知的活動は、私的な知識、私的な好奇心だけのためではない。コモンと言いますか、共同のものを考える気持ちがないといけない。知識人は何のために棹をさしているのかと言うと、やはり公共のためでしょうね。

村上:公共的な関心であり、関係であり、関わりを持たなければならないという義務感みたいなものですね。知識人は、それを持っていないといけないと思います。

篠原:最後に、これから漱石を読もうとか読み直してみようと思う人のために、漱石のどの作品のどこにどういう魅力があるのかを一言ずつお願いします。

村上:みんな失敗作だ失敗作だと言いますが、私は『虞美人草』って面白いと思いますよ。書き出しは非常に美文調で、絢爛豪華な漢語をたくさん使って、とてもわれわれには真似のできない言葉遣いで書かれています。でも漱石は最初から言文一体調をめざしていて、漱石の作品は、それまでのいわゆる漢文や、それこそ芭蕉のような和漢混淆体と呼ばれるような文章とも違う現代日本語の基礎をつくり上げたものの一つだと思っているので、そういう意味で美文調も含めて『虞美人草』は魅力のある小説だと思います。

猪木:私は『それから』や『行人』も好きですが、これを勧めたいということでは『吾輩は猫である』と『硝子戸の中』ですね。これは二つともいわゆる小説ではありません。『硝子戸の中』はエッセーですし、『吾輩は猫である』は当時の日本社会論あるいは文明論です。しかし、非常に狭い世界の中からあれだけ広い宇宙を示したという巧みさ。若い人が読んで面白いかどうかは別にして、齢を重ねた人間がああいうものを読んで楽しむのもいいなという意味で、『吾輩は猫である』を挙げたいと思います。
『硝子戸の中』に「人の心の奥には、自分でも気の付かない継続中のものが潜んでいる」という話があります。『硝子戸の中』は最晩年の作品ですね。自分の死が近いことを薄々知ってでしょうか、「人は談笑しながら死という遠い所へ歩いていくことができる。それは実はみんな夢の間に製造した爆弾を思い思いに抱えているのだけれど、その爆弾がどんなものか自分も人も知らないからだ」というようなことが書いてあります。でも読んでいて、これはなかなか救われるなと思えます。そういう意味で、アスペンのみなさんに『硝子戸の中』と『吾輩は猫である』を推したいですね。

篠原:ではきょうはこの辺で。ありがとうございました。

(完)