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9月5日は小林陽太郎氏の命日 松山幸雄氏の追悼文を再掲載

2020年09月03日アスペンセミナー

 9月5日は、当研究所設立に奔走された中心人物で、初代会長、理事長だった小林陽太郎氏の命日。今年で5年が経ちます。
 当研究所の会報「アスペン・フェロー」No.29(2016年4月発行)に、同じく当研究所の設立からかかわってくださっている、松山幸雄氏による追悼文が掲載されています。今回は、この追悼文をご紹介します。


松山幸雄
日本アスペン研究所名誉理事
共立女子大学名誉教授/元朝日新聞論説主幹

小林陽太郎さんを悼む

国際化時代の理想的なエリート

dummy2001年、かずさアカデミアパークで。左から猪木武徳、坂部恵、今道友信、小林陽太郎、本間長世、松山幸雄の各氏。真ん中の4人が亡くなられてしまった。

 半世紀前、私が初めてアメリカ生活を始めた時、NYタイムスの幹部に、こう助言されたことがある。「アメリカ人に評価されようと思ったら、四つのGを身につけなさい。Guts(根性)grit(度胸)gumption(積極性)and grace(優雅さ)だ」。
 私が「前の三つはともかく、四つ目のgraceは私には無理ですね」と答えたら「decency(品位)と言い換えてもよい。意外に思うかもしれないが、この国では人品がとても大事だ、ということを覚えておきなさい」。
 日本でもアメリカでも、天はなかなか一人の人に二物、三物を与えてはくれないものだ。有能な仕事師は往々柄が悪かったり、上品な人は迫力が今一つ、ということが少なくない。私が見てきたところでは、その点で理想的と思われたのは、周恩来、ライシャワー、NYタイムスのJ・レストン副社長……。
 そして日本で接した先輩では、すぐに松本重治国際文化会館理事長(故人)と緒方貞子元国連難民高等弁務官が思い浮かぶ。同年輩では、小林陽太郎さんが四つのGを備えた優等生だった、と思う。偶然だがこの三人とも、四つのGだけでなく、地球的(global)視野、交際範囲、という五つ目のGでも、断然他を抜きん出ていた。
 小林さんは育ちの良さからくる卑しからざる人品骨柄、誰からも好かれ、親しまれる明るい性格、内外の一流大学で得た教養、実業の世界で鍛えられたたくましさ、抜群の国際コミュニケーション能力……私自身が同席した国際会議やシンポジウムの現場で、彼の存在、活躍を、日本人としてどれだけ誇らしく思ったことだろう。「トニー(小林さんの愛称)を外相か駐米大使か国連大使にしたら、日本のイメージはぐんと上がるのに」といった声を、ワシントンやNYでよく耳にした。

アスペンで「目から鱗が落ちる」体験

 私との結びつきは「アスペン」だった。三十数年前、コロラド州アスペンの「現代日本研究セミナー」に招待された時、私は恥ずかしながら「アスペンによばれる」のがどんなに名誉なことかを知らなかった。アメリカ側の参加者は、日本のことを真剣に学ぼう、という大学教授、外交官、実業界、メディアのトップら二十人。勉強のお手伝いをする日本側は、私のほか山本正日本国際交流センター理事長(故人)ら五家族。二週間合宿し、連日ゴルフ、コンサート、コロラド河下りなど楽しい行事をはさみながら、「聖徳太子の十七条憲法」「豊臣秀吉の刀狩り」から福沢諭吉の「学問のすすめ」まで、英訳文のテキストを基に、現代日本文化の源流について、たっぷり質疑、討議した。
 率直に言ってそれまで私は、特派員として「ジャングル資本主義」「軍産複合体の跳梁」「ウォーターゲート事件」などを取材しながら、アメリカ社会の「反知性的側面」にいささかうんざりしていた。ところがアスペンでの真摯な雰囲気は、私に強烈な一撃を与えた。アメリカは決して「拝金主義一辺倒」ではない、ここにアメリカ精神の最も良質の部分がある――まさに「目から鱗が落ちる」思いだった。後から知ったのだが、数年違いで、小林さんもアスペンで同じように「目から鱗」の体験をしたという。「開明派の国士」といった雰囲気をもつ小林さんは、日本のビジネスマンの教養を高めるための場をつくろうと「日本版アスペン」を立ち上げることを思い立ち、私にも参加を呼びかけてきた。
 「アスペン・ショック」覚めやらぬ私は喜んでOKし、わが身の浅学菲才を顧みず「日本アスペン」のテキスト作りのお手伝いをした。そのご縁で、初島での第一回会議からリソース・パーソンとして参加し、「若手の指導」と同時に「私自身の勉強」をさせていただいた。ところがここ数年、アスペン・セミナーをリードされてきた今道友信、本間長世両先生があいついで亡くなり、そして今また、私より若い小林さんまでが夭折され、第一回のアスペンを知る人が、あっという間に(ケガで車椅子生活の)私一人になってしまった。村上陽一郎、猪木武徳、関根清三先生ら立派な後継者が活躍されているとはいえ、神様はアスペンにちょっと冷たすぎる、との思いを禁じ得ない。

平成の福沢諭吉

 ウィキペディアで「小林陽太郎」を引くと、三十いくつの団体の理事、評議員だった経歴が出ているが、それ以外にも、私自身がご一緒したハーバード大学国際問題センターなど、たくさんの組織に関係されていた。「noblesse oblige」(恵まれたものの義務)意識もおありだったのだろうが、傍らから見ていると、義務意識よりも、いろいろな種類の人との接触を心から楽しんでおられるような印象だった。
 始めのうちは、各界のボスから「若手のホープである陽太郎君を参加させて、育てよう」、そのうち「小林君の運営を任せよう」、最後には小林さん自身がプロデューサー役になって、いろいろな組織を立ち上げ、束ねる……といったことが繰り返され、とうとうベテランの秘書さんたちも覚えきれないほど、肩書が増えてしまった。「新日本フィルハーモニー交響楽団」「日本民藝館」「国際科学振興財団」「日本惑星協会」……といった関係団体の多彩さは、そのまま小林さんの教養、交友関係の幅の広さを示している。
 その中でいちばん気合を入れられていたのが「アスペン・セミナー」との関りだったのは間違いない。名実とも「生みの親」「育ての親」として、忙しいスケジュールの合間を縫い、たいていのセッションに一度は顔を出しておられた。アスペン参加者の中から、国際社会で日本のイメージアップに貢献している人がどれだけ輩出したことか。小林さんはまさに「平成の福沢諭吉」といった役割を果たされてきたと言えよう。
 度胸のあること、威張らないことでも、福沢諭吉に似ている。経済同友会の代表幹事として「中国問題」などについて先見性のある発言をし、右翼などから嫌がらせを受けても少しも動じなかった。
 また官学出のお偉方が、とかく「身分」「権威」や「肩書」にこだわって、人間関係を上下関係で見たがるのと反対に、小林さんはだれに対しても気さくに接し、周辺にはいつも春風、笑いが絶えなかった。
 私は政治記者として内外の“偉い人”をいろいろ観察する機会に恵まれたが、結論の一つは「気難しい人、威張る人は国際社会には向かない、むしろ海外(の自由社会)では、偉くなるほど気さくに振る舞う、少なくとも努力をしている」ということだった。日本では残念ながら、偉くなるとすぐ威張る人が少なくない。小林さんはその点でも、日本のリーダーたちの中で模範的な存在だった。

小林さんのご遺志を生かそう

 小林さんは仕事熱心な人であると同時に、人生の余裕、趣味を大事にする人だった。とくにゴルフは、玄人はだしだった。へぼゴルファーである私は、コースでご一緒することはご遠慮していたが、二人の会話にはよく「ゴルフ」が登場した。私が週一回長野大学に講義に行くと聞いて「どうして長野へ?」「実は講義のあと温泉で一泊し、翌日ゴルフをして帰る、という日程なのですよ」「羨ましいですねえ。碓氷峠を越えると空気が変わるから」。
 ハワイ大学に講義に行ったついでに、女子オープンに終日ついて回ったことがある。試合後ミーハー然として宮里選手に帽子にサインしてもらい、それを見せびらかしたら「私も一度サインの行列に並んでみたい」「私自身は長いゴルフ生活の中で、ホールインワンをやったことがないんだけれど、家内の方は二度もやっているのですよ」――こういう会話を交わすときの嬉しそうな顔が忘れられない。
 小林さんは、ご家族、友人、知性、品位、スタイル、財力、身体能力……すべてに恵まれた幸運児だったが、天はなぜ彼に「長寿」という一番大事なものを与えてくれなかったのか――アスペンでのいくつかの記念写真を見るたびに、懐かしさよりも先に、無念の思いがこみ上げてくる。いまはただ、小林さんのご遺志が「日本アスペン」の発展の中に生かされるのを祈るのみである。

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故・小林陽太郎氏
 1933年4月25日ロンドン生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業、ペンシルベニア大学ウォートンスクール修了。富士写真フイルム(現富士フイルム)入社後、富士ゼロックスに転じ、取締役販売本部長などを経て代表取締役社長に就任。その後、代表取締役会長、相談役最高顧問を務めた。
 経済同友会代表幹事としても活躍。日本経済の国際化にも取り組み、日米在韓人会議、ダボス会議議長などを歴任。日中両国の有識者でつくる「新日中友好21世紀委員会」の日本側座長として両国の関係強化に尽力した。また、国際大学の理事長を務めるなど、教育や人材の育成にも熱心に取り組んだ。
 1977年に米国アスペン研究所のセミナーへ参加し、日本にも同様の取り組みが必要という認識から、1991年に財界人の勉強会「キャンプ・ニドム」を開催。1998年に日本アスペン研究所を設立し、以来16年間にわたって当研究所の活動を牽引してきた。2014年に理事長を退任し名誉会長・理事に就任した。
 2015年9月5日逝去。享年82歳。