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本間長世先生(9月15日)、今道友信先生(10月13日)の命日を前に、両先生を偲ぶ鼎談を再掲載(1)

2020年09月10日アスペンセミナー

 日本アスペン研究所の設立には、組織の立ち上げに尽力された小林陽太郎氏をはじめとする経済界の方々と、セミナーの内容面でご指導いただいたアカデミアの先生方の存在が欠かせません。
 8年前のこの時期、テキスト・ビルディングを担っていただいただけでなく、モデレーターとしてもアスペン・セミナーを長く支えてくださった、本間長世先生と今道友信先生が、相次いでご逝去されました。
 これから4回に分けて、お二人を偲んで行われた鼎談の記録を、再掲いたします。


鼎談 リベラルアーツの魅力を広げる――本問先生、今遣先生を偲んで
会報「アスペン・フェロー」No, 24(2013年3月発行)より

小林陽太郎 ●日本アスペン研究所理事長
村上陽一郎 ●日本アスペン研究所副理事長 東洋英和女学院大学学長
松山幸雄  ●日本アスペン研究所理事 共立女子大学名誉教授
(肩書は、鼎談が行われた当時のものです)

得がたい出会いから

dummy本間長世先生(左)と今道友信先生(右)

編集部 きょうは、本間先生、今道先生というモデレーターについて、さらには、なぜ両先生がこれほどまでにアスペンに尽力されたかについて、お話し合いいただこうと思います。その辺りをお話しいただくことで、アスペン精神とは何かが浮かび上がってくるのではないかと考えております。今年、日本アスペン研究所は創立十五周年を迎えますが、まずは小林理事長から感想などお話しいただけますか。

小林 早いものでもう十五年という感じもするし、まだ十五年かという思いもありますね。私とアスペンとの触れ合いはすでにあちこちで話しているので詳しくは述べませんが、1977年に米国アスペンに初めて参加し、ぜひ日本にもアスペンをつくろうと、まずは「キャンプ・ニドム」と名づけたアスペン的な勉強会を始めたんです。偶然にも、私と同じアスペン・セミナーに出席しておられた日本IBMの椎名武雄さんが「天城セミナー」を始め、セゾングループの堤清二さんが「八ヶ岳セミナー」を、モービル石油さんが「ペガサス・セミナー」をと、私と同じようにアスペンに感銘を受けたそれぞれの方々が独自にアスペン・プログラムを始められていました。
 これらのセミナーが独自性を求めるあまり“アスペン”からかけ離れたものにならないようにと、情報交換の場として1992年に「アスペン・ジャパン・カウンシル」という連絡会がつくられ、その後も何年かはそれぞれのセミナーを個別に続けていたのですが、そろそろバラバラで活動しているものを日本アスペン研究所という形で一本化してスタートしたいと皆さんにお諮りしたところ、椎名さんからも堤さんからも、われわれも自分たちのプログラムにこだわるつもりはないから、より本格的なものにしていくためにもぜひつくろうじゃないかとご賛同いただいたんです。だから、日本アスペンが正式にスタートしたのは十五年前ですが、アスペン的なものは二十年前から始まっていたんですね。
 しかし、どういう骨格にしてどういう中身にしていくか。これがまた大変な課題でして、とにかく、まずは本間さんにご相談しようと。

編集部 そのときに松山先生が本間先生を推されたそうですね。

松山 私は小林さんより少し遅れて1979年にコロラド・アスペンに初めて行ったんですが、そこでアメリカのインテリの教養の探さにえらいショックを受けました。それまで私は朝日新聞のアメリカ特派員として十数年間ワシントン、ニューヨークで、ベトナム戦争、ウォーターゲイト事件、「ジャングル資本主義」といった、政治家や軍人、法律家、金融資本家たちが短期的視野で動き回る世界ばかりカバーしていたので、うわー、こういう世界があるのか、と目から鱗が落ちる思いでしたね。
 それから間もなく、小林さんから「日本アスペンを設立するから協力してほしい」との連絡があり、私は何よりもまずモデレーターには、学識、経験、人柄から言って本間先生が一番いいでしょう、と推薦したのです。
 コロラド・アスペンの参加者は、そのときのテーマが「現代日本」というものだったので、日本からは日本国際交流センター理事長の山本正さん(故人)ら五人、アメリカ側はインガソル元駐日大使ら十五人でした。みんな大変な論客でしたが、モデレーターのヘンリー・ロソフスキ・ハーバード大学文理学部長とヒュー・パトリック・コロンビア大学日本経済経営研究所長が議論を見事に裁くのを目の当たりにし、こうした知的会議ではモデレーターのリーダーシップが成功のカギを握ると思い、以前から親しくしていた本間さんを推したわけです。

小林 本間さんのことはアメリカ関係でご一緒する機会もあったので存じ上げていたのですが、松山さんに推薦していただいてからすぐに本間さんにお会いして、アスペンに協力してほしいとお願いしたんです。そうしたら、そこから一気に広がっていった。それは、本間さんの学者としてのネットワークもあるし、お人柄もあるんだけれど、何よりも最初の段階で本間さんご自身が、これは面白いと思われた気配がかなり濃厚にあったんですね。
 ちょっと横にそれますが、岳父が慶應義塾大学で中世哲学を教えていたので、今道先生はお若いころから私の家内の里にしょっちゅう訪ねて来られていたそうです。家内はもちろん哲学なんてまったく興味を持っていませんでしたが、先生にはずいぶん声が大きくて喧嘩腰に議論をする人という印象を持っていたらしい(笑)。だから、日本でアスペンがスタートして今道先生に参加していただき、あの方はすばらしいモデレーターだと家内に申しましたら、 「信じられない、あの先生が」なんて失礼なことを言っていました(笑)。
 ところで今道先生は本間先生が誘ったのかな?

村上 そこのところは私もよくわかりません。

松山 日本アスペンの設立総会のときにはもう入っておられましたね。とにかく日本アスペンは初めから「本間アスペン」「今道アスペン」といった感がありました。

小林 個々のきっかけについては明快に記憶していないのですが(笑)、振り返ってみると、よくもあんなにうまくいったなというのが率直な感慨ですね。

村上 それは、おそらく本間先生を中心に据えられたということが決定的だったと思います。本間先生は私の先輩、つまり東京大学教養学科の卒業生で、東大の教養学部というリベラルアーツ・カレッジをつくり上げるための、もっとも重要なメンバーのお一人だった。もちろん、その前には初代教養学部長であった矢内原忠雄さんがおられましたが、教養学科の理念を考えていく上で中心的な役割を果たした第一期の卒業生でもありました。
 いまさら申し上げることでもないのですが、アスペンが参考にしたシカゴ大学のリベラルアーツ教育のカリキュラムは、いわゆる「グレート・ブックス方式」とも「シカゴ方式」とも呼ばれ――『グレート・ブックス』という書物そのものはハーバード・クラシクスですからもともとはハーバード大学のものなんですが――、まさにハッチンスがシカゴ大学の総長だったときに始めたものです。
 この方式が面白いのは、アスペン同様にいくつものテキストを指定して学生にあらかじめ読ませるのですが、担当教師は自分の専門のテキストを選んではいけないというルールがあるんですね。教師はまったくの白紙ではないかもしれないけれども、学生と同じような立場でテキストに臨み、オープン・ディスカッションの場であまりリーダーシップを発揮してはいけないと。これがアメリカの大学における教養教育のモデルになっていることははっきりしているんです。
 おそらく本間先生はそれを十分ご存じの上で教養学科の理念をつくり上げられたところがあるので、まさにアスペン精神もグレート・ブックス的なものを踏まえているわけですから、アスペンの活動は本間先生がお考えだった大学 数育のシニア版として、先生の理念にぴったり合っていたのではないでしょうか。

松山 テキストの選定ではいろいろな議論があり、私自身の強く推した本もいくつか採用していただきました。

小林 日本アスペンを設立するにあたって、村上先生がおっしゃったグレート・ブックス、あるいは私や椎名さんが感銘を受けたアメリカのものがすでにあるのだから、それをそのまま持ってくれば、テキストやプログラムの内容についての決定はもっとスムーズに進んだのかもしれません。
 ただ、プログラムを決めるときに、アメリカで印象に残ったことを話した覚えがあるんです。それは、参加者の一人でイランの国立大学の大学院長が、英語はベラベラなのに二日間まったく発言しなかった。そして三日目の最初のセッションのときに手を挙げて、大変失礼だがこのセミナーがめざすところは私が考えているのとは違う。私が見たところ、皆さんは西洋の価値観だけに関心があるらしいが、世界はそれだけで成り立っているわけではない。しかし皆さんは必ずしもそう思ってはいないようなので、私はこれ で帰りますと言った。これはアスペン始まって以来の大事件なんですね。しかも、当時はイランのシヤー(王室)がかなりまとまった形でアスペンの財政援助をしていました。だからジョー・スレイターという有名な理事長が慌てて、そんなことを言わないで続けて参加してくれと言ったんですが、この人の決心は非常に固かった。
 つまり、日本でアスペンを立ち上げるにあたって、日本や東洋のものばかりで埋める必要はないけれど、やはり日本独自、東洋独自のもの、あるいは企画委員会で選んだものを入れた方がいいんじゃないかと。

松山 テキストも回を重ねるごとに少しずつ直していきましたね。本居宣長の擬古文などは古文より難しくてみんな歯が立たないことがわかり、そのうちにテキストから落ちてしまいました。私はこういう世界では人気投票的なものはあまり気にしないのですが、それでも参加者が何年たっても興味を示さないものは、やはり淘汰せざるを得ないと思いますね。

次回に続く