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関根清三先生の「人文学不要論に寄せて―セミナーの現場から(1)」

2020年10月20日古典

 様々な技術や道具に囲まれて生活している現代の私たちにとって、その知の根源である自然科学の重要性は直感的に理解でき、真正面から否定する人は少ないでしょう。
 それと比較して、人文学の重要性は、アスペンの活動に少しでも関わったことのある方、関心のある方には自明のことと思えるかもしれませんが、いざ、否定的な意見を持つ人、無関心な人に説明しようとして、言葉を詰まらせた経験のある方も多いのではないでしょうか。
 今回のコラムでは、「人文学は何の役に立つのか」という問いへ、アスペン・セミナーに関わっていただいているアカデミアの先生方がどのようにお答えになっているのか、過去の会報の記事からご紹介いたします。
 まず、当研究所の理事でもいらっしゃる、東京大学名誉教授の関根清三先生のご寄稿文(アスペンフェロー31号 2017年3月発行に掲載)を数回に分けてご紹介いたします。

人文学不要論に寄せて―セミナーの現場から
関根清三
日本アスペン研究所理事
東京大学名誉教授

 近年かまびすしい人文学不要論に触れつつ、アスペン精神を再考する一文を、というのが編集部のご要望である。ちょうど昨夏 、7月と9月に、エグゼクティブおよびヤング・エグゼクティブ・セミナーのモデレーターを担当し、また8月には米国アスペンに派遣されたので、そうしたセミナーでのテクスト読解の最新事情と絡めて書いてみたい。アスペンを支えてくださっている皆様にはセミナーの現場について説明責任の一端を果たし、セミナーの卒業生の方たちには回顧と再考の一助を御提供し、そしてモデレーター同僚諸氏にはモデレーションの試行錯誤を御笑覧に供したいとのココロである。

Ⅰ.人文学不要論論駁

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 まず猪木武徳先生が、最近とみに喧伝される「実学」とは、漠然とすぐ役に立つ学問ではなく、権威に対する「健全な懐疑心と独立の気力」をもった学問と解すべきだ、と鋭く指摘されていることに注目したい(「実学・虚学・権威主義」『中央公論』2016年2月号、85頁)。
 この懐疑心と独立心は、今道友信先生の教えを受け継ぐアスペンの我々は、《クリティークの精神》と言い換えてもよいだろう。すなわち漢語の「批判」は病的な懐疑心に基づいて相手の悪いところをネガティヴにあげつらう態度だが、それに対しギリシア語のクリネインに遡る「クリティーク」は、健全な懐疑心をもって対象の悪い点を探し出し除きつつも、しかしその後に残るポジティヴな価値を一己の独立した責任で探り当てる精神的姿勢だと、今道先生は繰り返し教えてくださった。そういうクリティークの精神を持っているのが実学であり、それを欠くのが虚学なのではないか。
 ところが、権威主義に対するクリティークの精神は、主として哲学など文系の学問で養われる。理系の学問が、もし社会的ニーズや経済成長ばかり気にした科学技術一辺倒に奔るならば、この権威に対するクリティークの精神が培われず虚学となって、権力の側に闇雲に利用される恐れなしとしない(そうした科学者たちの例については、例えばフィリップ・ボール『ヒトラーと物理学者たち』〈岩波書店、2016年〉参照)。その点で、文系なしの理系という考え方は危険なのではないか 。

 さて、2016年度の京都賞を受賞したアメリカの哲学者、マーサ・C・ヌスバウム女史の『経済成長がすべてか?』(岩波書店、2013年)という本は、「デモクラシーが人文学を必要とする理由」という副題を持つ。ここで彼女は、グローバルな時代にデモクラシーが生き続けていくために人文学は必須だと訴えている。クリティカルな精神を養うことを彼女も指摘するが、それと並んで強調するのは、イマジネイションの力を陶冶するということである。
 人は小説を読むことによって、他者の内面を想像することを学ぶ。そういう文学作品を精緻に読む人文学は、他者に対する想像力を磨き上げ、このグローバルな時代に、他国籍、他民族、他宗教の人たちと、徒に暴力的になって喧嘩することなく、寛容と忍耐をもって付き合っていく知恵を養う。彼女によれば、イマジネイションの能力とは、「異なる人の立場に自分が置かれたらどうだろうかと考え、その人の物語の知的な読者となり、そのような状況に置かれた人の心情や願望や欲求を理解できる能力」(同書125頁)と定義される 。そうした能力を磨く点で人文学は必須だというのが、ヌスバウムの挙げる大事な論点なのだ。
 経済学者の猪木先生はもとより、ヌスバウム女史の書名も『経済成長がすべてか?』である限り、経済活動の重要性、そしてそれを支える理系の科学技術の必要を前提としている。しかし、だからと言って人文知を無力として全面的に捨て去る最近の傾向はバランスを失するというのが、両氏の論意にほかなるまい。そしてここに我々は、近来かまびすしい人文学不要論に対する強力な論駁のキーワードを見出し得る筈である。クリティークの精神とイマジネイションの力、この2つの能力を養うという点で、理系の学問に欠けがちな効用を人文学・人文知は有しており、不要どころか不可欠な筈なのだ(哲学・文学に加えて史学も、人類が何を経験しどこまで考えて来たかを検証する反省力を陶冶する意味で重要だが、紙幅の都合上ここでは割愛する)。
 では、アスペンの人文知のテクストを、人文学的成果も適宜踏まえて読み解く時、このクリティークの精神とイマジネイションの力は具体的にどう養われていくのか。ここから、テクスト読解の実例を挙げて、我々モデレーター、リソース・パーソンがどういう点に留意し汗をかいているか、参加者の議論も御紹介しつつ、セミナーの現場へと踏み込んでいくこととしたい。

(次回に続く)