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関根清三先生の「人文学不要論に寄せて―セミナーの現場から(3)」

2020年11月11日古典

 前回のコラムでは、アスペン・セミナーで取り上げられる、プラトン、孔子、森鴎外のテキストを例に、「クリティークの精神」と「イマジネイション」が涵養されていく様が描かれました。
 今回は、「アメリカ独立宣言」を題材に、米国アスペンにおけるセミナーで、アメリカ人が自らの植民地政策に対する反省にどこまで踏み込めるのかという問題や、オバマ大統領が広島訪問の際に、言葉ではなくハグによって示した「コンパッション」が、国を越えた共感を生んでいく様が紹介されます。
 アスペン・セミナーにおける真摯な対話が、参加者の理性に対して働きかけて新たな気づきを生んでいくことに止まらず、人々の感情や精神にまで働きかけるものであることの一端をご堪能ください。

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 さて次に、日米のアスペンで共通に採用されている数少ないテクストの1つ、「アメリカ独立宣」に目を転じたい。
 まずこのテクストは、イギリス国王の圧制に対するクリティークを縷々述べたものであることは言を俟たない。例えば「暴君の行為によって特徴づけられた君主は、自由な人民の統治者となるには不適当である」といった言い方に代表されるクリティークである。しかも次の一句はイマジネイションの好例である。「イギリスの同胞を戦争においては敵、平和においては友とみなさざるをえない」。これは、ジェファーソンの起草した最初の版にはなかったが、現在の怒りに駆られて戦争を仕掛けるだけでなく、将来の平和時のことも想定し英国同胞の心中も察して、後に付加されイマジナティヴな一句なのである。
 独立宣言は、米国アスペンのセミナーでは「個人の権利と自由」というセッションに組み込まれている。最初にアリストテレスで奴隷と市民の問題、次にルソーで社会契約の問題を論じていくので、独立宣言では「インディアン蛮族」に対する植民地政策を反省する議論が出ることを期待したが、8月のセミナーではそこまでいかなかった。それが不満で、セッションの後の昼食の時間に、気の置けない仲間たちとざっくばらんな対話を試みた。要するに「戦時には敵、平和時には友というのは、英国人同胞に対するイマジネイションが働いていて素晴らしいけれど、一歩進めて、ネイティヴ・アメリカンに対するイマジネイションはどうなのか」と、敢えて聞いてみた。これはデリケートな問題だが、「セッションで話せるのは、税を払えという政府と、払いたくないという民衆の軋轢といった、現代とパラレルな問題があるといったところまでさ」という、予想された反応だった。それで「われわれ日本人は謝ってばかりいるけれど、アメリカ人は歴史の謝罪についてはどう考えるのか」とさらに聞いてみると、リーダーが公的に謝罪することはアメリカではタブーだという意見が大勢であった。アメリカのようにアフリカンやヒスパニック等、多民族が混在している国では、ポリティカルな意味で謝罪は難しいのだ、と。

 そこでオバマ大統領の広島訪問に話題が移り、次のような話をした。「今年の5月、オバマさんがアメリカ大統領として初めて広島を訪問した際、公的な謝罪はしなかったけれど、被爆者の森重昭さんとハグした。そのシーンは、多くの日本人の胸を打った。森さんは『残された者の痛みに、敵も味方もない』という思いから、被爆死したアメリカ人捕虜12人の遺族を逐一調べて弔意を伝えた人。この森さんとオバマさんのハグはコンパッション(思いやり)の共鳴があり、言葉のアポロジーを超えて、我々の共感を誘ったのだ」と。オバマ大統領の広島訪問は翌日のセッションでも、長くロンドンで仕事をしておられて英語の堪能な日本人の参加者が図らずも話題とされた。それを受けて、日本の会社とも取引のある会社役員の男性は、日本人に申し訳ないと思っているアメリカ人として救いになったと涙ぐんでおられたし、デジタル教育を普及させる会社の女性社長も、戦争で起こる犯罪と赦しの問題に心痛めているアメリカ人として感動したと仰っていた。アメリカ人の半数は未だ原爆投下は間違っていないと考えているという統計があるけれど、こういう良心的なアメリカ人も少なくないことを具に知ることができたことは 今回の米国アスペン訪問の大きな収穫の一つであった。

(次回へ続く)