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関根清三先生の「人文学不要論に寄せて―セミナーの現場から(4)」

2020年11月25日古典

 前回のコラムでは、「アメリカ独立宣言」という政治的な文書を軸に、本場の米国アスペン・セミナーにおいて、参加者の対話がテキストやセッションを越えて深まっていく様子が報告されました。
 今回のコラムでは、エグゼクティブ・セミナーのテキストで最後に取り上げられている、ヴァーツラフ・ハヴェルを参照しながら、宗教や覚醒体験が持つ現代的な意味についての考察が繰り広げられます。聖書研究の世界的権威である関根先生のリードで、参加者がたどり着いた「存在の所与性」とは何か。チェコの大統領であり、劇作家・思想家でもあったハヴェルは、思考の過程でどのような「クリティーク」と「イマジネイション」を働かせたのか。人工知能やロボティクスが喧伝される今でこそ、改めて考え、味わいたい一文です。

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 最後に、日本のエグゼクティブ・セミナーのリーディングに戻り、独立宣言とも関係するヴァーツラフ・ハヴェルの2つのテクストに触れておきたい。今回の改訂版でセミナー全体の最後に配置した、重要なテクストである。
 ハヴェルは、チェコスロヴァキアの劇作家で、共産主義政権下では抵抗し逮捕され、民主化以降大統領となった政治家でもあった。まず、アメリカ独立記念日にフィラデルフィアで行った「ポストモダンの世界における自己超越の探求」という講演。前半で「造物主」、後半で「創造主」と訳されているのは、原語では同じcreatorだが、前半では「近代科学の把握からあまりにも遠くかけ離れた」概念で葬り去られるのが当然という評価なのに、後半の結びでは《そのお方を忘れてはいけない》と復活しているのは何故か。7月のセミナーでモデレーターは、この辺りの投げかけをした。それに対して、独立宣言がcreatorに言及しており、アメリカのクリスチャンを前にした独立記念日での講演だから、一種のリップサーヴィスではないかといった方向の解釈も出て来た。
 そこから一歩進めて、ハヴェルの体験と思想は、創造主信仰に戻ることよりも、「存在という奇跡」への眼差しを取り戻すことの方にあるという読み筋に向かった。つまり、creatorが存在をcreateしたということが時代とともに信じ難くなった。しかし存在がcreateされている、あるいはもう少しニュートラルな言い方をすれば、giveされているという事実も、 creator信仰とともに一緒くたに忘却してはいけないということがハヴェルの言いたいことなのではないか。誰が与えたかは分からないが、宇宙も自然も我々自身も、その存在を我々が創り出したのではなく、実は「奇跡」的に何者かによって与えられているということ。誰が与えたかは分からないから、主語については必ずしも否定はしないが判断中止し括弧に入れて、《創造主が存在を創った》ではなく、受動態でただ《存在が与えられている》と言い直し、その存在の所与性という原事実に対する「敬意」を取り戻そうということ。そうすれば、同じく奇跡的に存在を与えられている者同士、お互いの存在を大切に思い、人権を本当の意味で尊重できるようになるということ――それが、ハヴェルの根本思想である。こういう方向へと、7月のセミナーの議論は深まっていった。

 しかもこの思想は、ハヴェルの絶対的な存在体験から生まれている。そのことを『プラハ獄中記』の一節は告白しているので、それを今回の改訂版では補った。すなわち彼は、或る夏の日、獄中から外の巨大な木に見入っていて突如、すべてが神秘的な存在に支配され共存しているという覚醒体験をした。リーディングの改訂版は、その存在体験の叙述を講演と並べることによって、思想の生まれて来る背景にどういう体験があるかをはっきりさせようとしたのである。この覚醒体験は言語を絶していて、言葉では分かりにくいけれども、その具体的な応用例として面白いエピソードが語られているので、モデレーター、リソース・パーソンは努めてそちらも補完的に参照する。
 すなわち、獄中でTVの天気予報を見ていたら、TV局の何かの事故で音声だけ途切れてしまった。解説をしていた女性が、映像だけ映し出されていることに、可哀想なほど困惑していた。ハヴェルはそれを見て、いたく同情した。なぜこんなに同情するのか 最初自分でも不思議だったけれど、次第に理由が見えて来たという。つまり、われわれは予め完全な自我を持っていて、そこから困惑した人を助けるのではない。むしろ他者を助ける責任の中に投げ出されていることが先で、その責任を果たしていく途次において、徐々に自我が成立するのだ。しかも我々自身が困惑した人そのものなのではないか。天気予報の女性は、自分の傷つきやすさと孤独と無力を赤裸々に露呈していたが、それは我々自身の姿ではないか。だから私自身いたたまれなくなり、どうにかできないか、責任をいたく感じたのだ─このようにハヴェルは語る。
 しかもそればかりではない。ハヴェルによれば、そこにはもっと遥かに深い理由がひそんでいる。こういう瞬間に「存在の声」が響いてきて、自分の心を刺激し、眠りから呼び覚ますのだ。つまり元来結合していた存在がいったん分離され自閉していたけれど、その元来の存在へと還帰し、それと一つに再結合するために働こうという、存在への郷愁から出てくる覚醒した参加意識が、ここに目覚まされる。こういう意味のことを、ハヴェルは獄中記で語っているのだ。すると「我々は、奇跡的に存在を与えられている者同士だということに目覚めることによって、初めて互いの人権を本当の意味で尊重し合える」というのがフィラデルフィア講演の中心のメッセージだという如上の解釈の妥当性が、より具体的に見えて来る筈であろう。
 ハヴェルは人文的教養ゆたかな劇作家・思想家だった。そして共産主義政権下で政権批判をし、反体制運動の首謀者として逮捕され、4年半獄中にいた、文字通り「クリティーク」を身をもって実践した人であった。加えてそこには、こういう見ず知らずの天気予報の女性にまでも優しい同情を抱く「イマジネイション」が働いており、それが深いところで哲学的な存在体験に発している。ハヴェルの言葉は、正にクリティークの精神とイマジネイションの力という人文知のエッセンスを豊かに体現したものとして セミナー全体を締めくくるに相応しいと私は考えている。そして、改訂版を使用して2度目となる7月のセミナーでは、このことが参加者の活発な対話と呼応して 十分に伝わった確かな手ごたえがあった。

(次回へ続く)