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塩川徹也先生「文学は何の役に立つのか(1)」

2021年01月07日ヒューマニティ

 前回までのコラムでは、関根清三先生による「人文学不要論に寄せて」を再掲し、私たちが生きていくうえで人文学がどのように役立つのかについて、アカデミアの立場からのひとつの回答を提示しました。
 今回からは、この流れを受けて、文学に焦点を当てます。当研究所の諮問委員でいらっしゃる、東京大学名誉教授・塩川徹也先生による「文学は何の役に立つのか」を4回に分けて掲載します。
 塩川先生はアスペンらしく、先ずは、日本語の「文学」や英語の“Literature”という語が、どのような意味の変遷を辿ってきたのかをキチンと押さえるところから始められます。そのなかで、日本語の「文学」と関連するletters, literature, literacyという語を取り上げられていますが、これらの語はそれぞれどのようなニュアンスで理解すればよいのでしょうか。

「文学は何の役に立つのか」
塩川徹也
日本アスペン研究所諮問委員
東京大学名誉教授

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 リベラル・アーツや哲学はリーダーシップの養成に大切な役割を果たすと言えば、本誌を愛読するアスペンの諸兄姉は喜んで賛同してくださるに違いありません。しかし文学もそうだと言うと、違和感を持たれる向きも出てくるかもしれません。とはいえ、文学とは何であり、何のためにあるのかをよく考えてみると、それが単なる暇つぶしや気晴らしにとどまらず、社会生活においても職業生活においても、さらには市民生活においても必要不可欠な働きをしていることが次第に見えてきます。その理由を、文学が養い育てる二つの主要な能力、一つはリテラシー、もう一つは物語(虚構・フィクション)を通じて呼び覚まされる、他者の気持ちを想像し、それに共感する力に注目して考えてみたいと思います。話の手順としては、まず「文学」ということば、そしてそれに対応すると考えられる英語の literature あるいはフランス語の littérature という語が、長い歴史の中で、いかなる意味の変遷を遂げ、いかなる事柄(精神活動、文化活動)として理解され、それが教育においていかなる役割を果たしてきたかといった問題を手がかりにして説明を進めて行きます。

リテラシーとしての文学

 まず、ことばの意味の詮索から始めます。今日、日本語で「文学」といえば、「想像の力を借り、言語によって外界および内界を表現する芸術作品。すなわち詩歌・小説・物語・戯曲・随筆など」と理解されています。ところで今の定義は『広辞苑』からの引用ですが、そこでは定義の前に、literature という語がカッコつきで添えられています。実は文学という語は古典中国語に由来しますが、それは元来、学芸・学問一般を指していて、とくに芸術作品を意味してはいませんでした。日本でも事情は同様で、明治以前にも「文学」ということばはありましたが、それが、芸術作品としての文学を意味することはありませんでした。現代の私たちに親しい「文学」の今日的意味は、英語の literature の訳語として、文明開化の時代に日本に導入されたのです。

 それならヨーロッパの伝統において、英語の literature あるいはフランス語の littérature は、昔から「言語表現による芸術作品」の意味で用いられていたのでしょうか。そうではありません。英語でもフランス語でも literature が芸術作品としての文学という意味を獲得するのは、大まかに言って18世紀の後半以降、せいぜい明治維新の百年前に過ぎません。それ以前のliterature は、学問一般についての深い知識、学識を意味していました。要するに、古典中国語の「文学」と同じ意味で用いられていたのです。

 Literature という語は、ラテン語の litteratura に由来しますが、それは「文字」(ラテン語で littera、 英語の letter)の読み書きの能力を出発点として、文章とそれが表現している事柄を読み解く能力、そしてそれによって獲得される知識と技能を意味していました。伝統的な社会にあっては、洋の東西を問わず、文字の連なりである文章で表現されたもの、英語なら複数形の letters が学問の全体を指していました。したがって「文字の学」すなわち「文学」はすべての学問のプラットフォームになる普遍的な学問でした。

 もう少しだけ、ことばの話を続けます。伝統的な意味での literature は、学問という意味での「文 letters」を学ぶことだと申しましたが、英語にはもう一つのその同義語があります。それが literacy です。文字面からもご想像がつくように、これまた「文字」に由来する語ですが、本来は、文字を読み書きする能力、それを通じて獲得される知識、とりわけ教養を備えていること意味します。それが今日、意味を拡大して、さまざまな分野で比喩的に用いられているのは、皆さまご存知の通りです。

 それはとにかく、これまで見てきたことから、伝統的な意味での「文学」で問題になっている事柄を英語で表現するのに、letters, literature, literacy の三つのタームがあることがお分かりいただけると思います。Letters は文章で表現された学問の成果であり、学びの対象となります。Literature はそのような対象を学ぶ行為であり、またそれによって習得される学識、教養でもあります。Literacy は、前者と重なる部分がありますが、その力点は文字と文章の学習によって獲得された資質ないし状態に置かれています。

(次回に続く)