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塩川徹也先生「文学は何の役に立つのか(4)」

2021年02月16日ヒューマニティ

 前回のコラムで塩川先生は、芸術としての文学が学校教育に取り入れられてきたことの意義について、論を進められました。個人レベルでは、論理的であるだけでなく、話者の人柄を伝え、聞き手の琴線に触れるようなコミュニケーション力をつけるために芸術としての文学が活用されてきたこと、さらに社会レベルでは、「虚構」としての文学が様々な差異を超えた共感を社会の中に生む効用を持っていることなどが語られました。

 さて、この論考の最後では、これまで述べられてきた文学の効用が体現された例として、上皇后美智子さまの講演が紹介さ入れます。美智子さまにとって文学は、単なる教養ある女性のたしなみとしてではなく、「国民の統合に心を砕くとともに世界の『恒久の平和を念願する』ことを自らの使命とする人生を生きるために不可欠の糧」であったとするご考察は、説得力を持って胸に迫ってきます。

 皆さんが改めて文学について考える際の一助としていただければ幸いです。

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 このような文学の特質と力を実感させてくれるたぐいまれな証言がありますので、それをご紹介してこのお話をお仕舞にします。それは、上皇后美智子さまが自らお書きになった文章で、もともとは「子供の本を通しての平和」というテーマを掲げて、1998年にインドのニューデリーで開催された国際児童図書評議会 (IBBY)の大会の基調講演として準備されたものです。『橋をかける』というタイトルで文春文庫その他から刊行されていますから、お読みになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。

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 美智子さまはそこで自らの子供時代の読書の思い出を踏まえて、読書が、他者の抱く悲しみと喜びへの感受性を養うとともに、自分の心のありようを振り返るきっかけとなることに注目されます。そしてそれを通じて、(美智子さまのおことばを引用すれば、)「人は自分と周囲との間に、一つ一つ橋をかけ、人とも物ともつながりを深め、それを自分の世界として生き」るようになります。しかも、「この橋は外に向かうだけでなく、内にも向かい、自分と自分自身との間にも絶えずかけ続けられ、本当の自分を発見し、自己の確立をうながしていく」というのです。こうして物語つまり文学は、子供たちに、豊かな感情生活をはぐくむことによって、一人の人間として生きる力を与えるばかりでなく、他者の感情を理解し、共感を通じて他者と共存し、社会の連帯感情さらには世界平和を願う心を養うというのです。

 子供にとって、いやそればかりでなく一人の人間にとって、文学がどれほど重要な役割を果たすかを、これほど説得的に語る文章はまれだと思います。しかしそれが、皇后であられた美智子さまから発せられ「おことば」であることを思うとき、私たちはそこに、もう一つ別の意味を読みとらずにはいられません。それは、「日本国の象徴」かつ「日本国民統合の象徴」としての天皇のお務めを、全身全霊を傾けて、果たされてきた陛下に美智子さまが寄り添って、「災害や病気によって悲しみや苦しみにある人々、社会や歴史の周辺にある人々に注意を傾け、可能な限り一人ひとりにまっすぐ向き合いながら、〔…〕その声に耳を澄ますということに献身的に取り組んできた」そのお働きと生き方の根底に、文学によって養われた他者への思いやりと共感があり、しかもそのことを美智子さまご自身、深く自覚しておられるということです。そうだとすれば、文学は一人ひとりの人間の生きる力であることを超えて、人間同士の連帯と社会の結合そして国民の統合にも一役買っていることになります。

 そればかりではありません。文学を通じて統合される国民と国家は、統合されるからと言って、他の共同体や国家に対して閉ざされたもの、ベルクソンの言う「閉じた社会」ではありません、いや決してそうなってはなりません。そして文学はまさに他なるもの、異なるもの――それが一人の人間であれ、人間の集合体である社会や国であれ――に対して、想像力と共感を梃子にして自分自身を開き、相手を受け入れる働きをします。美智子さまは、そのことをご自分が子供時代に読まれた外国の物語や詩、ドイツのケストナーやロシアのソログーブの悲しい物語、アメリカの国民詩人ロバート・フロストの「心の踊る喜びの歌」――「牧場」という詩です――を通じて、ご自身の体験として語られます。しかもそれは、昭和十年代後半の戦争の時代、英語が敵性語とされた時代に、疎開先でなされた読書だったのです。当たり前のことですが、文学それ自体には、戦争を止める力はありません。しかし世界の国々が各々「閉じた社会」として衝突している時代でも、文学はほかの国の人々が私たちと同じような感情を抱いて生きていることを実感させ、それを通じて世界の人々の相互理解と平和を願う気持ちを読者の心の中に芽生えさせます。美智子さまはそのことを強く自覚されたうえで、世界の子供たちが読書を通じて平和を願う心を養うことを祈念されるのです。

 この『橋をかける』という文章を読んで強く感じさせられるのは、文学が、美智子さまにとって教養ある女性の単なるたしなみでもお飾りでもないということです。それは、ご自身に生きる意義と力を与えるもの、それも日本国の象徴である天皇陛下の伴侶として、国民の統合に心を砕くとともに世界の「恒久の平和を念願する」ことを自らの使命とする人生を生きるために不可欠の糧なのです。美智子さまのおことばは、文学の意義と効用について書かれた最良の弁明 apology だと思わずにはいられません。ご一読をお勧めして、このお話を終わりにいたします。

(完)