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東日本大震災から10年 熊本地震から5年 震災後の鼎談を振り返る(5)

2021年05月11日科学・技術

 数回に分けて掲載してきた、大震災を受けての鼎談も最終回。前回のパートでは、大震災の経験によって改めて突き付けられた、「幸福とは何か」、「よく生きるとは何か」という問いについて、関根先生から問題が提起されました。
 鼎談の締めくくりでは、この問題提起を受けて、現代に生きる私たちが科学・技術の成果に過度に依存することなく、また、過剰な物質・情報によって刺激される欲望の循環を断ち切って、「よく生きる」ことに立ち向かえるかが論じられます。専門家の限界を認識しつつも彼らの知識や能力を尊重して活かし、専門家と非専門家との間で建設的な対話を形成していくこと。そしてそれを通して、強制ではなく、自発的な抑制を選択していく市民性を養うこと。まさにアスペン的な精神の重要性が再認識されます。


村上陽一郎
●日本アスペン研究所副理事長
 東洋英和女学院大学学長
関根清三
●日本アスペン研究所諮問委員
 東京大学大学院人文社会系研究科教授
荻野弘之
●上智大学文学部哲学科教授
〈司会〉
山口裕視
●国土交通省総合政策局国際政策課長
(※肩書は当時)

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山口 それぞれが役割を持ち、それを果たす喜びや連帯の可能性に希望を見出すことができるのであれば、先ほどの専門家と非専門家のギャップも埋めていけるかもしれないと思います。ただ、科学技術への依存をどうするかという点では、身近な例で申し上げると、夏の電力不足で駅やビルのエスカレーターが止まってしまい、高齢者の方たちの移動が難しくなってしまったこともありました。科学技術に過度に頼らないという生き方をしたときに、そういう部分はどうなるのかとも思いますが。

荻野 確かに質素な生き方はいいけれど、仮に日本の経済が減速したら、その分は他の国に出ていって国内だけ空洞化してしまうわけですね。だから世界規模で合意ができればいいけれど、今回の原子力の問題を海外の人たちは自分のパトス(苦難)として受け止めているかというと、かなり疑問で、その経験を共有できないのであれば、話はそう簡単ではないかなと。

村上 これは余計なことですが、科学技術の成果の一つが自動小銃なんです。それがアフリカの人たちの手に渡って、子どもたちまでがお互いに殺し合っていて、私たちはそれさえ止めることができない。そんなことを考えると本当に絶望的にならざるを得ないところがありますね。

関根 国と国の抗争と利己主義を見ると、本当に希望を語ることが滑稽な気がしてきます。しかし、地中海の自然エネルギーの共同供給や排ガス規制の世界会議、一方で広がりつつある原爆廃絶の動き等々、民族や国家を超えた人類と地球単位の発想も、徐々にではあれ出てきていますね。

村上 技術というのは、抽象的に言えば需要が技術を開発するというのが基本パターンでした。これはエコエティカの話とも絡むけれど、いまや技術が先行して、人間が持つはずのなかった欲望も引き出すようになった。例えば私は携帯電話を持っていませんが、携帯電話を初めてつくった人はいまのような加熱した状況が起こるとは夢にも思っていなかったはずですね。通話だけでなくさまざまな機能を持ち、それがまた欲望を刺激して、じゃあこんなことはできないのかという要求になる。これは悪循環と言うべきか良循環と言うべきかよくわからないのですが、ある価値観から言えば明確に悪循環が動いている。だとしたら、これをどうやって止めるかが課題になる。

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荻野 私もストア派を中心として幾つか禁欲の思想の系譜を考えてみたことがあるのですが(『精神の城塞』岩波書店)、我々の生活は、物質の面でもそうですが、情報という点でも余りにもむだが多いですね。例えばグルメなんて情報を食べているみたいなものでしょう。つまり肥大化した情報がまた別の新たな欲望をかき立てていく循環の構造があって、どこかで自分の不必要な情報を仕分けることが必要だという気がしますね。

山口 自主的な選択はできますが、問題は他人にそれを強制することができるかというと…。

村上 人間の欲望の肥大化をいかに制限するかということでは、かつては宗教がその役割を果たしていた社会もあったわけです。でも近代社会の中では難しい。

荻野 残念ながら確かにそうですね。

村上 と言うと希望がなくなっちゃうか。

山口 ただ、よい社会をめざすというときに、そういう中で何かできることはないだろうかという問いかけは続けていかなければと思います。

村上 一言、岩田さんの話に少し寄り添うとすれば、環境問題や資源の枯渇など自分を取り巻く外の限界みたいなものがしっかりと認識されれば、その悪循環を食い止める一つの方法にはなると思うのですね。

関根 そこですね。欲望を統制する上からのモラルファシズムではなく、事態についての知的な認識に基づいて、自発的にそれを選択できる仕組みが重要になる。そこで、先生が最初に言われたコミュニケ一夕一養成の話に戻ると思います。科学技術だけでなく、経済学や哲学の分野でもコミュニケ一夕ーが必要ですね。そしてアスペンもその一翼を担うものでありたい。コミュニケ一夕ーを媒介とするコンセンサス会議を市民レベル、国際レベルで積み重ね、食料・資源の限界、人口爆発と南北問題などの認識を一般化して、人類の明日の選択肢について合理的合意を、多面的な努力が必要とはいえ形成せねばならない。3.11によって最後通牒的に、そうした反省を迫られた気がしています。

山口 専門家と非専門家との溝を埋めていく方向で努力することができるかどうか、その中でそれぞれが役割を持つことができるかどうか、そこが重要ですね。

村上 それをめざすことで希望をつなぐしかないと思いますね。いまは専門家の判断だけでよいのかという問いかけが共有されるようになってきて、だから専門家は尊重されなければならないことははっきりしていますが、その専門家も限界のある人間なんですね。私は教室の中にある種の権威勾配のようなものがなければ教育は成り立たないと思いますが、現実は教室での権威勾配をできるだけなくして平たくしてしまおうとしている。私はそれがどうしても納得がいかないんです。専門家は専門家として尊重されるべき側面を持っていることを認めると同時に、専門家はその領域に限った専門家なのだから、あらゆることに対して判断力も持っているかどうかは疑っても構わないという、その両面を考えた上で社会の中で専門家をきちんと生かしていく。一方、生活者も非専門家の立場を存在理由として認められるよう努力し、専門家との間の距離をできるだけ減らしていく。迂遠なようだけれど、そういう方向で動くしかないのかなと思います。

山口 きょうはどうもありがとうございました。