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アスペン精神をどう継承するか(下) 村上陽一郎先生

2020年06月26日アスペンセミナー

 前回のコラムに続いて、村上陽一郎先生の「アスペン精神をどう継承するか」の後半をご紹介します。
 前半では、対話を通した「オルタナティブ」=「他のようであること」との出会いが、「寛容さ」「謙虚さ」を培っていくことが示されました。
 後半ではさらに、「寛容さ」に加えてこれからますます求められる「ネガティブ・ケイパビリティ」について語られます。
 VUCA時代と言われるように、私たちは、変動が激しく、不安定かつ複雑で、曖昧な環境に取り囲まれています。こうした状況下では最適な問題解決策は容易には見つからず、それどころか、何が取り組むべき課題なのかも分からない状況に直面します。そんな時にこそ、宙ぶらりんの状態に耐えながら粘り強く思索を続ける力が求められるのではないか、つまり、何かを成し遂げる積極的なケイパビリティではなく、何事も成し遂げえない状態を耐える消極的なケイパビリティが必要だというのです。コロナ禍の只中にいる私たちにとって、改めて考えてみるべき示唆ではないでしょうか。

「寛容」と「ネガティブ・ケイパビリティ」

dummy村上陽一郎 日本アスペン研究所 副理事長/東京大学・国際基督教大学名誉教授

 冒頭で、次の20年に向かうための新しい価値を創造しなければいけないという話をしましたが、私はない知恵を絞った挙句、いま申し上げた「寛容」という概念が新たな風となるのではないかと考えました。
 寛容については、もともと欧米では「徳」(virtue)の一つと考えられていました。私は、言葉で書かれたものの中でもっとも美しいのは、ジョン・ロックが著した『寛容についての書簡』(Epistola de tolerantia )というラテン語の文書だと思っていますが、この本が書かれた17世紀のヨーロッパでは、キリスト教の中でプロテスタンティズムとカトリシズムという二つの宗派が争い、ときに激しい戦いにまで発展していました。最大の宗教戦争と言われる三十年戦争(1618−1648年)も、カトリックに対するプロテスタントの反乱に端を発しています。そういう時代にロックは「宗教的寛容」ということを唱えたわけですが、その影響の大きさを考えて、この書物は匿名で出版されました。有徳の無神論者と悪徳の信者という言葉さえ出てくるのです。神を信じない者の中に徳を持った人たちがいるというのに、キリスト教の信者と言われている者が、カトリックであろうがプロテスタントであろうが悪徳を極めている人がいるではないか。われわれは宗教というものに対して寛容の徳を身につけなければならない、ということを見事な文章で綴っています。
 しかしこの寛容は、私がここで提案しようとするものとは少し意味が違います。ジョン・ロックが唱えたのは宗教的な文脈で語られた「道徳的寛容」であり、人間が道徳的に果たすべき徳目としての寛容という意味では大切なことですが、徳目から離れても寛容という概念はあり得るのではないかということで、私は「機能的寛容」を提案したいと思います。
 一般に寛容は「tolerance」ですが、私が考える寛容は、工学の世界で「遊び」や「余裕」として用いられている「allowance」という概念に近いものです。わかりやすい例を挙げると、男性のワイシャツのボタンホールは縦穴に切られていますが、一番上だけは横穴に切られています。首回りに少しゆとりを持たせるためになされている工夫ですね。あるいは楕円形にネジ穴を切れば、ネジとネジ穴がぴったり同じでなくてもがっちりと止まります。このような遊びやゆとりも寛容の一つと考えていいのではないかと考えていたところ、衝撃的な本に出会いました。帚木蓬生さんが書かれた『ネガティブ・ケイパビリティ――答えの出ない事態に耐える力』(朝日新聞出版、2017年)です。
 帚木さんは大学でフランス文学を専攻し、社会に出て数年後に医学へ転向して精神科医となり、いまは福岡でクリニックを営みながら執筆活動をされています。そこに導いたあらゆるものに比してもっとも帚木さんが大事にされたのはペンネームだと思います。「帚木」も「蓬生」も『源氏物語』の巻名ですね。小説もたくさん書かれていて、福岡・筑豊の炭鉱を舞台に在日朝鮮人の人生を描いた刺激的な小説『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞を受賞されました。三國連太郎さん主演で映画化されているのでご覧になった方もいるかもしれません。また、日清戦争から太平洋戦争に至るあらゆる前線で活動した軍医たち一人ひとりの戦争体験を描いた『蠅の帝国』『蛍の航跡』という二部作もすぐれた作品です。
 その帚木さんが「ネガティブ・ケイパビリティ」に出会ったのは精神科医となって数年のころ、医学雑誌でこの言葉を知り、やはり心をゆさぶられ、それ以来、この概念がずっと自身を支え続けているそうです。ネガティブ・ケイパビリティの具現者が『源氏物語』の光源氏であると帚木さんが書かれていることもつけ加えておきたいと思います。

 では、ネガティブ・ケイパビリティとは何か。現代社会では日々さまざまな課題が噴出していますが、新たな課題が生じたときに、その課題に関する情報をできる限り大量に、そしてできる限り迅速に収集して最良と思われる解決策をできるだけ早く見出し実行するという、即断即決の資質が現代のリーダーには強く求められています。この点について、私は、そしておそらく帚木さんも否定するところではありません。しかし、それだけでリーダーたる者として十分なのかという問いかけがネガティブ・ケイパビリティです。
 つまり、即断即決で最適解を探るというのはポジティブ・ケイパビリティですが、そこで一度立ち止まって、それで本当にいいのだろうかと、さまざまな形で問題に問いかけてみることが大事なのです。そもそもその課題は本当に課題なのか、他の視点から見れば実は課題ではないかもしれない。あるいは別の角度から見たら課題の性質が変わるかもしれない。そうすれば自ずと解決策が違ってくるかもしれません。また、判断を下そうとする回答の本質は何かということをさまざまな価値観で分析すれば、新たな気づきがあるかもしれません。このような思惑を自分自身の中で思い巡らせ、目の前にある回答に飛びつきたいという誘惑から一歩退き、言うなれば宙ぶらりんな状態に耐える力もリーダーシップに必要なのではないか、というのがネガティブ・ケイパビリティの重要なポイントです。
 帚木さんはキーツというイギリスの詩人の文章からネガティブ・ケイパビリティを学ばれたそうですが、私は帚木さんのご本から学びました。そして、このネガティブ・ケイパビリティが、心のゆとりと遊びが、寛容を支えることになるのではないかと思ったのです。そこで、日本アスペン研究所のこれからの20年の精神の一つに、リーダーシップを涵養するためのプログラムを支える理念の一つに、この価値観を加えてみてはどうかと提案する次第です。
 人はものごとを受け継いでいくとき、さらにそれを新たに発展させていくときに、常に大きな迷いを持ちます。そのようなときの一つの指針として、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの神に対する祈りをご紹介いたします。別段キリスト教の神を持ち出さなくとも、人間として、あるいは組織を運営していく者として、大切にしなければならないことが書かれているのでないかと、最後にこの言葉を引きたいと思います。

God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed, courage to change the things which should be changed, and the wisdom to distinguish the one from the other.

――変えることができないものごとについては心の静けさをもって受け止め、変えるべきものについては変えるための勇気、そして変えるべきものと変えるべきでないものを区別する知恵を私どもに与えてください。――

(完)