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東日本大震災から10年 熊本地震から5年 震災後の鼎談を振り返る(4)

2021年04月26日科学・技術

 前回の鼎談では、危機時におけるリーダーには「実践的な賢さ(フロネーシス)」と「レトリック」が求められる一方、そのような完全なリーダーを求めるだけでなく、フォロワー自身があるべきフォロワーシップを磨くことも、大きな課題だと指摘されました。
 続く今回の鼎談では、関根先生が被災した哲学者・岩田靖夫氏の論を引きながら、「幸福とは何か」についての問題提起をされます。震災でのつらい経験を通して、「ただ肉親と共にいること、他者と共にあることが、人生の究極の価値であることを知った」私たちは、その一方で「孤独に一人で生きる生き方や贅沢な文明を享受することがまがい物の幸福と果たして言い切れるか」という疑問もぬぐい切れず、引き裂かれた状態にいます。そしてまた現在、コロナ禍において他者との接触が制限される中での孤独の問題や、感染防止と最低限の経済活動維持とのバランスなど、同じ根を持つ哲学的課題に悩まされているように思えます。
 「よく生きるとは何か」という古代からの問いが改めて切実さを帯びてきているいま、皆さんご自身はこの問いにどのように向き合っていますか。


村上陽一郎
●日本アスペン研究所副理事長
 東洋英和女学院大学学長
関根清三
●日本アスペン研究所諮問委員
 東京大学大学院人文社会系研究科教授
荻野弘之
●上智大学文学部哲学科教授
〈司会〉
山口裕視
●国土交通省総合政策局国際政策課長
(※肩書は当時)

真の幸福とは

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山口 最後に、「よく生きる」ために私たちはどのような行動をすればいいのかという問題をお話しいただきたいと思います。

関根 よく生きるとはどういうことか、人類の幸福とは何か、というのは大変大きな問いですから、倫理学に関わる者としては何か大きな答えを出さなければと力みがちになってはいけません(笑)。しかしここで大事なことは「善美の事柄について誰も根源的にはわかっていないのだ」というソクラテスの無知の知の姿勢を持することだと思います。とはいえ逆に何もわからないというのも無責任な話に違いありません。ここまでどなたも被災者の視点には言及されなかったので、私は被災された方たちの証言に基づいて、どこまでわかり、どこからわからないか、見極めつつ語ることを試みてみたいと思います。
 数々の証言の中で私がもっとも重く受け止めているのは、東北の哲学者、岩田靖夫先生が宮城県亘理町で被災され、直後に早稲田大学でなさった「大災害についての哲学的考察」(「思索」44号)という講演です。
 岩田氏によれば、科学技術は自然の法則と力を人間の幸福のために役だててきたけれど、自然への畏れを失い宇宙の神秘を解き明かしたかに人間が思い込んだとき、自然は今回の地震のように、そうした思い込みを木端微塵に打ち砕く。それでも、経済的繁栄のために科学技術に依拠し原子力発電に頼らざるを得ないとする人に対しては、経済がそれほど至上の価値なのかを問い質さなければならない。経済はあくまで人間が生きるため衣食住の物資を確保する手段にすぎなかった。それなのに、貨幣の発明以降、経済的富の蓄積が自己目的化し、際限のない富の蓄積と飽くなき欲望の追求へと人間は駆り立てられてきた。この目的手段の転倒を正し、経済は人間がよく生きるための手段にすぎないという原点にいまこそ立ち帰り、我々はもっと質素に生きるべきではないか。これが、岩田氏の見方です。
 では、そもそもよく生きるとはどういうことか。さらに岩田氏はこう続けます。
 津波から逃げながら、親は子を、子は親を、兄弟姉妹は互いを探し、富や快楽や名誉や仕事などの価値は吹き飛んで、ただ肉親と共にいること、他者と共にあることが、人生の究極の価値であることを知ったと言われます。それがよく生きるということの本質であった。被災者同士が身を寄せ合い助け合う中で、また全国、全世界からボランティアの助けを得て、実感されたことだった。物質文明の奢侈の中で、まがい物の幸福や快楽の追求に踊らされていた我々は、大震災に遭遇して却って人間の本来の生きる意味、真の幸福を想起させられたのだ。
 以上が被災された哲学者の重い証言の骨子です。よく生きるとは他者との愛の中で共に生きることであり、それが真の幸福だというご指摘は多くの方が頷かれることと思います。しかしわからない点があるとすると、それだけがよく生きることであり、幸福なのかということかもしれません。孤独に一人で生きる生き方や贅沢な文明を享受することがまがい物の幸福と果たして言い切れるかどうか。自由主義の時代の多様な価値観を許容する必要はないかどうか。特に質素の勧めについては、自由主義経済の発展を阻害し、貧困化を惹起するだけだ、という批判があるでしょう。それに対しては1929年の大恐慌以降、世界経済が急速な工業生産の供給過多に需要を追いつかせようとして公共投資を増やし、第三次産業を強化し、大量生産・大量消費を奨励してきたけれど、人口爆発に伴い食料の供給も、埋蔵資源の残存量も乏しくなって来た現在、それらを力で争奪する世界大戦を避けねばならないという岩田説を弁護すべきかどうか。ここは本当にはわからない。経済学等の専門家が知恵を出し合って、多面的な検討が必要な点でしょう。
 また、氏は震災直後のボランティアの活動を多としておられます。もちろん日常的には仕事こそ、社会の要請に自らのもっとも能力のあるところで応答する責任(レスポンシビリティ)を果たし、他者と共にある勝義の喜びをもたらすと付言することも許されるでしょう。今回、被災者や支援者の「真に高貴な忍耐力と克己心」に対して世界中から賞賛が寄せられましたが、この高貴さの背景には仕事を幸福と感じる民族のよき伝統があるのではないか。高田町で家と店を失った男性が、妻さえ生きていればやり直せると力強く語っていたのも、原発の処理に向かうとメールした消防援助総隊長に妻から「日本の救世主になってください」という返事が入ったという証言も、仕事を通して責任を果たし、勝義の愛を貫徹していくという日本人の底力を示すものに違いないと思うのです。こうした幾つもの重い証言によって、私はよく生きるということを、改めて問い直されたと感じています。

(次回へ続く)