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東日本大震災から10年 熊本地震から5年 震災後の鼎談を振り返る(3)

2021年04月15日科学・技術

 前回の鼎談では、科学・技術をめぐる「対話」を社会にどう根付かせるかという問題が提起され、専門家と非専門家を繋ぐコミュニケーターを育成する取り組みが紹介されました。ただし、対話が成り立っていくには、立場の異なる関係者が、何らかの価値や目的を共有することが必要だとの指摘もあり、困難で時間がかかっても、それを探していくことが求められるようです。
 これに続く今回の鼎談では、危機時でのリーダーシップに話が展開していきます。
荻野先生は、ご専門のギリシア哲学を援用して、「実践的な賢さ(フロネーシス)」と「レトリック」の重要性を指摘されます。これを受けて、関根先生はリーダーシップに加えてフォロワーシップを鍛えることの重要性を、村上先生は専門家の情報発信の問題点を指摘されます。
 玉石混淆の情報洪水の中で、しかも不完全な情報しか得られない状況下で、幅広い合意を形成し適切な判断をしていくためには、社会を構成する私たちひとり一人が、それぞれの立場に応じた対話のための資質を磨き続けることが必要で、これはコロナ禍の現在においても、重い課題であり続けています。


村上陽一郎
●日本アスペン研究所副理事長
 東洋英和女学院大学学長
関根清三
●日本アスペン研究所諮問委員
 東京大学大学院人文社会系研究科教授
荻野弘之
●上智大学文学部哲学科教授
〈司会〉
山口裕視
●国土交通省総合政策局国際政策課長
(※肩書は当時)

リーダーシップをめぐって

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荻野 今回の震災で印象的だったのは、報道の仕方、特に津波の映像を動画サイトで見られたことです。阪神・淡路大震災のときは報道写真やテレビのニュースでは見たけれども、こんなにたくさんの息をのむような衝撃的映像を見ることはなかった。しかも日本国内だけでなく、同時に世界がそれを見たわけです。
 これとは全く対極に、原発事故というのはイメージによる推測を許さない恐怖です。建屋が吹き飛んだ映像はショッキングではあったけれど、そこで本当に起こっている事件の核心は、実は全くわからない。ですから情報は重要なのですが、例えば官邸が情報を上げろ上げろと言うけれども、温度計の数値が並んだデータを見せられてもそれが持つ意味がわからなければ、そもそも情報になりません。表象されることのない、ただひたすら概念によってだけつくられてくる恐怖を経験せざるを得ない。あるいは何年か後にガンの発症率が何%上がるといった確率や蓋然性としてしかイメージできない。そういう不思議な種類の恐怖に直面しているわけですが、これは原発だけではない。例えば脳死だって、当人が死んでいるのか生きているのかというもっとも基本的な事実すら、生のリアルな感覚ではなくて、計器の示す数値によってしか決めることができないわけです。我々の生の実感を離れたところでいろいろ大切なことが動いている。そんなことを今回の災害で思い知らされたように患います。
 リスクという言葉が原子力業界ではずっとタブーだったという村上先生のお話がありましたが、イグナチウス・ロヨラの『霊操』によれば、これは宗教的な文脈なのですが、絶対に安全だという形で何かを誘うのは悪魔の特徴だというのです。「絶対に儲かりますよ」と誘うのは詐欺の手口ですね。しかし「絶対安全」と電力会社が言っていたから彼らが悪魔だとは思わない。むしろ逆です。我々はたとえ反対派でなくても、どこかで絶対に安全であってほしいと願うわけでしょう。つまり、パーセンテージで示されるような安全を、我々はついに理解できないのではないか。問題は、確率で示される安全が一体何を意味しているかということです。雨の降る確率が30%であるという命題は一体何を意味しているのか。それをどう考えたらいいかという段階に高度技術社会は突入しているのかと思います。
 哲学的には昔からある議論ですが、絶対確実な知識の根拠を求めていくと、常に懐疑主義にさらされるわけです。では懐疑主義の行き着く先は何かと言えば、我々は全く行動できなくなってしまう。裏を返せば、我々の日常は、どこか非合理的な信念にコミットしているからこそ生活が成り立ち、行動できるという面がある。そこを正確に評価しなければいけない。
 もし仮に技術の内部だけで合理性が保証されないということになると、技術が中立を装って、安全かどうかの決定は政治にお任せしますという形になる。そしてなんでも住民投票で決めましょうというポピュリズムの方へ流れて、安全の問題が政治的な合意形成の問題に還元されてしまう。そして合意形成の問題になると、補償金といった経済の論理やら、レトリック、宣伝がすべてとなってしまうので、そういう場合に必要な情報を、誰がどこまでどういう形で捷供するかというのが決定的な問題になってきます。
 もう一つ今回の問題は、インターネットによって自然発生的にいろいろな情報を草の根的に発信する試みが出てきましたね。それらと、国や研究機関・自治体がオーソリティーを持って発信する情報とをどう組み合わせていくのか。そこで、意思決定におけるリーダーシップという大きな課題が出てくるわけですが、危機とか転換期の時代には、ともすると非常に急進的な改革がもてはやされたりするけれども、それにはやや懐疑的ですね。
 私の考えを申し上げれば、二つのキーワードがあって、一つはフロネーシス、もう一つはレトリックです。フロネーシスは「実践的な賢さ」と訳されていますが、これを最初に提起したアリストテレスにしても、実はどういう知であるのかを定義できない。単に個人の利益ではない、共同体の利益を追求する意味では政治家とか経済人に求められる知識であるけれども、幾何学みたいに厳密に演繹できるわけではない。原則をわきまえながら、それを具体的な個別の場面でうまく適用していく、そうした普遍と個別を媒介する知ですから、どうしても経験が必要になってきます。もちろん短期的な目標を設定して、そのための最適解を求める道具的理性とか目的合理性とも遠います。当然、究極的な人間の価値という課題を視野に入れるので、ある種の審美的な、つまり美しいとか立派だとか、そうした価値観とも関わりを持ってくる。
 このようにフロネーシスは多様な面を持つ概念なのですが、要するにマニュアル人間の反対です。だから、でき上がっているものを適当に転がしていけばいいという、ある種の官僚主義みたいな考え方がいろいろな組織の中で進行しつつあるけれども、そうではなくて、一人立ちして、かつ全体を配慮するような知をどうやって養成するかというリーダーシップに関わってくるんですね。
 もう一つのレトリックは古代から非常に重要な政治の要素ですが、説得のための有効な手段を発見する技術です。どうやって大勢の人を短時間に説得するのか、そのために磨くべき言葉の力は何なのかということですが、これは、人を説得する技術であると同時に人から騙されないための技術でもあるんですね。いろいろな形の政治的宣伝に騙されないで、一人一人が市民の立場からきちんとした判断力をつくっていけるかという予防的な意味でも、情報化が進行する社会の中で、レトリックがもう少し見直されていいのではないかと思います。

山口 マニュアル人間の対極ということでは、まさに今回いろいろなところで臨機応変に判断し、的確に行動した人たちが数多く見受けられました。そういう能力は何によって培われるのか、すべての人が教育とトレーニングによってそうなれるのか…。

荻野 まさにそこが問題で、こうすればいいという即効薬やマニュアルを示した途端に怪しいものになってしまうんですね。だからなかなか簡単に語ることはできないけれども、山口さんがおっしゃったとおり、今回の震災のように想定外の事故が起こったときにこそ、大いに鍛えられるということはあると思います。

関根 一言付け加えさせていただくと、リーダーと言えども完璧なはずはなく、人間的弱点を抱えていますが、非常時にそれを批判してもしようがないんですね。3.11前後はあまりに感情的で不毛な批判が多すぎた。弱点はあるけれどその人をリーダーに集団として纏まっていこうという約束事なのだから、リーダーシップとともにフォロワーシップを鍛えることも、我々の重要な課題なのでしょうね。

村上 原発事故に関して言えば、専門家が専門家としての役割さえ果たしていなかったということがあります。名前は言いませんが、テレビジョンで最初のころに解説をしていた人は東大の原子力工学のエースでもあるけれど、それこそ素人のような反応しかしなかった。それで評判が悪くて結局は下ろされてしまったんですが。でも専門家には何が起こっていたかはもちろんわかっていたはずです。私でさえ二日目には「ああ」と思ったくらいですから。しかしそれが言えなかった。パニックを起こしてはならないことが最大の価値として働いたのだろうとは思いますけれども。

関根 つまり専門的な知識のある人が、大衆がパニックを起こすのはよくないという善し悪しの判断にまで越権してしまった、ということでしょうか。

村上 さあ、個人の判断か上からの規制だったのか、その辺はわかりませんが、実情は早くからアメリカには伝わっているのですから。それがまた非常に残念ですけれど。

荻野 ある時期から「大本営発表」になってきたなという雰囲気が出てきましたからね。

山口 私の周りでも海外のサイトばかり見ている人が多かったです。

村上 そこは今回の教訓として深刻な部分で、これから分析が必要なところだろうと思います。

山口 ただ、専門家の方に一方的に過大な要求をしているような気もします。タブーとあえて向き合い、真実を冷静に受け止められるかどうかは、非専門家である私たちの側にも厳しく問われていることではないかと思います。

村上 それは、まさにそのとおりです。

(次回に続く)